西郷隆盛の運命を変えたのは小さな「寄生虫」だった!?(※写真はイメージ)
西郷隆盛の運命を変えたのは小さな「寄生虫」だった!?(※写真はイメージ)

 歴史上の人物が何の病気で死んだのかについて書かれた書物は多い。しかし、医学的問題が歴史の人物の行動にどのような影響を与えたかについて書かれたものは、そうないだろう。

 日本大学医学部・早川智教授の著書『戦国武将を診る』(朝日新聞出版)はまさに、名だたる戦国武将や歴史上の人物がどのような病気を抱え、それによってどのように歴史が形づくられたことについて、独自の視点で分析し、診断した稀有な本である。特別に本書の中から、早川教授が診断した西郷隆盛の症例を紹介したい。

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西郷隆盛(1828~1877年)
【診断・考察】フィラリア感染症

 良くも悪くも近代日本の始まりである明治維新の立役者の一人が、西郷隆盛である。しかし、彼の生涯は国事に奔走した文久~慶応の時期と、唯一の陸軍大将として軍の頂点に立ち、また参議として旧藩主をも上回る地位につきながら下野し、最後には城山に自刃する後半生が著しいコントラストをなす。

■外遊しなかった理由

 西郷隆盛(通称吉之助)は、文政10年12月7日(1828年1月23日)薩摩藩の下級武士・西郷吉兵衛隆盛の長子として加治屋町に生まれた。正しい諱は隆永であるが、明治維新の時に誤って父の名を届けたためこれが正式名となった。文武両道に優れていたが、少年時代に友人たちの喧嘩の仲裁に入って右腕の腱を斬られ、剣術修行ができなくなり、その分学問に邁進した。

 英明で知られる藩主・島津斉彬に若くして抜擢されるが、その急死により失脚。奄美大島、さらには沖永良部島に流される。しかし、数年を経ずして家老・小松帯刀と、親友大久保利通の後援を受けて復帰。抜群の政治力と人望で禁門の変から薩長同盟、王政復古、そして戊辰戦争を戦い抜いて明治維新を成し遂げる。特に旧知の勝海舟との降伏交渉で、江戸を火の海から救ったことは有名である。

 ただ、政治的偉人としての西郷の活躍はここまでであった。ともに維新を成し遂げた岩倉使節団の外遊には同行せず、朝鮮との国交回復問題では征韓論を主張したとして盟友大久保らと対立。ついには下野して鹿児島に戻り、私学校での教育に専念する。しかし西南戦争の首魁に祭り上げられ、明治10年(1877年)9月24日鹿児島市城山で自刃した。

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早川智

早川智

早川智(はやかわ・さとし)/1958年生まれ。日本大学医学部病態病理学系微生物学分野教授。医師。日本大学医学部卒。87年同大学院医学研究科修了。米City of Hope研究所、国立感染症研究所エイズ研究センター客員研究員などを経て、2007年から現職。著書に戦国武将を診る(朝日新聞出版)など

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