その中心として最も高い期待が寄せられてきたのが、男子フルーレであり、エースの太田だった。

 04年に初めての五輪出場を果たすも、結果は9位。08年の北京に向けオレグコーチの指導の下、周囲の選手たちもめきめきと力をつける。だが、太田はというと「すごいコーチだとわかっていても、プライドが邪魔して指導を受ける気になれなかった」と言うように、ふたりの距離ははじめから近かったわけではない。とはいえ、反発するばかりでは何も変わらず、結果も出ない。

 06年のアジア大会を直前に控えた8月、太田がついに折れた。

「勝たせて下さい。そのためなら何でもします」

 ドーハで行われたアジア大会では、当時の太田よりもランキングで上回る中国、韓国の選手を打破し、日本人選手として個人では28年ぶりとなる金メダルを獲得。アジアから世界へ。オレグコーチと二人三脚での挑戦が始まった。

 常に先頭へ立ち、自らが道を切り開く。自身が結果を出すことだけでなく、若手の台頭やフェンシング選手としての地位向上につながるようにと、選手会の設立や、「太田雄貴杯」の開催、SUPER FENCINGを立ち上げるなど、フェンシングの普及に向け、活動の幅を広げる一方、14年に仁川で開催されたアジア大会で74年以来、実に40年ぶりとなる団体戦での優勝。15年にモスクワで開催された世界選手権では日本人選手として初優勝を果たした。

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