新たなビジョンへ

 先人たちの訃報よりも、岡井がショックを受けたのは、翌79年7月の「カメラ毎日」前編集長山岸章二の急逝だったそう。前年に毎日新聞社を退職した山岸は、岡井自身の熱心な依頼に応じ、1月号から写真時評「ニュー・フランクネス」を連載していた。

 この年の山岸は、4月にニューヨークの国際写真センターで19人の日本人写真家による「自写像・日本」展をキュレーションしていた。そこで連載ではリチャード・アヴェドンの7ページにわたるロングインタビュー(4月号)や、「自写像」展に参加した写真家の座談会(7月号)などが掲載されている。国際的に先駆的な仕事をしていた山岸の死は、日本の写真界全体にとっても大きな損失だった。

 一方で、この山岸と交錯するように、78年4月号の本誌に初登場したのが石原悦郎である。石原は、大特集「アッジェ再発見」に「入手したアッジェの写真について 徹底した職人気質が生んだプリント」を寄稿し、特集に掲載された彼所有のオリジナル・プリントは、パリの著名なラボマンであるピエール・ガスマンによるもので「あらゆる意味で原板に忠実」だと誇らしげに書いた。このとき石原の肩書は「ツァイト・フォト・ギャルリ主宰」だが、約1カ月後の4月20日、東京・日本橋で開業した日本初のオリジナルプリント画廊は「ツァイト・フォト・サロン」だった。本誌によれば、当時のプリントの価格設定は、アジェとドアノーが15万円、カルティエ=ブレッソンが50万円、日本人では土門が8万円、篠山紀信が5万円である。

 石原は以降も彼が所有するマン・レイ、ブラッサイ、ケルテス、ビル・ブラントなどの作品を、本誌の特集や連載の素材に提供している。ことに80年10月の増刊『巴里PHOTO』には、ディレクターとして全面的に係っているオリジナルプリントの可能性を否定する人々の多かった当時、石原は本誌を通じて啓蒙とPR活動を行ったのだった。

 翌79年1月、このツァイト・フォト・サロンで初の日本人写真家の展示「KAZUOKITAI」展が開かれた。北井一夫は石原から、10年後はオリジナルプリントでの展開がスタンダードになる、また写真家の価値はプリントを美術館が収蔵することで決まるようになると言われ、直観的にそれを信じたのだった。

 この石原の見通しは、やがて現実になるのだが、違っていたのは10年よりもさらに時間を要したことだろう。その間、石原の画廊もオリジナルプリントの展開に懸けた写真家たちも、多くの苦闘を経験しなければならない。

 同年の7月号では、日本写真美術館設立促進委員会が結成され、国立の写真美術館の設立を求める要望書を文化庁に提出したことが報じられている。

大型新人登場!

 79年になると、不作から脱したようだった。まず中堅と位置づけられる写真家が連載で新たな展開をみせた。富山治夫の玄界灘の暮らしの風景をとらえた「風紋・波紋」、広告畑の十文字美信が日系ハワイ移民をテーマとした「金のなる樹 布哇・花」(6月号から全6回)などは、歴史に埋もれた人々の時間を表現していた。なにより誌面に活気を与えたのは、藤原新也、石内都、田原桂一という新人たちだった。彼らに共通するのは、異なった表現ジャンルを経験したのち、カメラを手にしたことである。つまりこれまでの写真の文脈とは違う地点からスタートしたのだ。

 まず藤原のきっかけは、東京藝術大学油画科在学中の69年に「アサヒグラフ」に告知された、海外旅行の体験記の募集を見て編集部を訪れたことだ。このときフィルムと旅費を得てインドを放浪し、翌年3月に「〝インド発見.100日旅行」を発表するとその文才が注目された。さらにインドやチベットへの旅を重ね「印度行脚」(73年)、「天寿国遍行」(76年)、「逍遙游記」(77年)などを連載すると、鮮やかな暗さをもった写真が人気を呼んだ。

 新進の紀行作家は、本誌「話題の写真をめぐって」でもたびたび話題に上っていたが、作品の初掲載は78年1月号の「朝鮮半島」と遅い。その藤原が同年の木村伊兵衛写真賞(以下、木村賞)に満票で選ばれると、岡井編集長は「たぐいまれな大型新人の登場」と絶賛した。藤原は翌年には「ゆめつづれ」(4月号)と「自宅周辺」(10月号)を発表、翌々年に連載「四国遍土」(1月号から全3回)が掲載されると、その濃厚な終末観が読者を引きつけた。

 多摩美術大学でテキスタイルを学んだ石内は、74年に友人の矢田卓らの同人展「写真効果」で写真に興味を持った。そこで翌年9月の同展に初めて出品すると、東松照明と荒木経惟に褒められ、本格的に取り組むようになる。その2年後には、思春期を過ごした横須賀の風景を痛々しいほどの粗いトーンで切り取った作品で初個展「絶唱・横須賀ストーリー」を開き、新進の女性写真家とみなされた。

 さらに78年、古びた木造アパートを撮影して写真集『A PARTMENT』(写真通信社)にまとめると、女性初の木村賞の受賞者となった。藤原と同じく全員一致の判断で、審査員の桑原甲子雄は「作者の肉体的生理に近いものが画面をくまなく彩っている」ことが、見るものを吸引するのだと評した。石内は、受賞発表の翌5月号から、各地の旧赤線地帯の建物を訪ねる新しいシリーズ「連夜の街」を断続的に発表する。

 その石内とともに木村伊兵衛写真賞の候補に挙げられたのが田原である。彼の名前が初めて本誌に載ったのは78年7月号の展評欄で、評者の森永純が日本初個展「窓」を絶賛した。さっそく翌号には「海外で脚光を浴びる異色写真家」として作品「光景」とインタビュー記事、さらにフランス国立図書館のJ・C・アマニーの田原評が掲載されている。

 京都生まれの田原は、72年にツトム・ヤマシタの劇団「レッド・ブッタ・シアター」の映像・照明デザイナーとしてヨーロッパ公演に同行したが、途中、パリに残った。それから持っていたカメラで部屋の窓から空を撮り始めたのは、日本とは違う「黒墨のような空の青さ」に惹かれたからだという。やがて77年にはアルル国際写真フェスティバルの新人大賞を受賞するなど、現地で作家として認められた。

 田原が木村賞を逃したのは、岡井の選評によると「写真が絵画的な美術に近づきすぎる感じ」がしたからだという。 田原が、ついに同賞に選ばれるのはこの6年後である。この間、新しい写真メディアで育った世代が、写真をめぐる風景を徐々に変えていくのである。