予想通り、そうしたいきさつを知らない医師や看護師が「最近はどうか」と尋ねてきた。
相変わらず便が漏れますね。そう答えると、「袋のつけ方を十分、練習してくださいね」と決まり文句が返ってきた。
すかさず「専門家」の名前を挙げた。「あの人にやってもらったんですけど、漏れました」。今後はイライラさせられることのないよう、黙り込んだ相手にクギを刺した。
「専門家がやっても漏れるんですから、私が練習しているか、慣れているかは関係ないですよね」
病気になって知ったのは、医師や看護師は、専門分野でも私が抱く疑問に答えられないということだ。説明の理屈が通らず、重ねて尋ねても、同じことをただ大声で返してくるような場合もある。配偶者にこぼしたものだ。
「それでも受け入れるお年寄りの患者さんが多いから、こうなるんじゃないか」
私でいえば、痛み止めの問題だ。
口にしたものがほかの人よりも圧倒的に早くPから排出されるのに、同じ量が吸収されているのか。多めに飲まなくていいのか。
どこの病院で尋ねても、答えはなかった。飲み薬の量を増減したデータがないなら、合理的に推測すればいいのに、と思う。ただ彼らは単にゼロ回答になるのだと気づいた。
「自分が闘っている相手は病気ではない」と考えるようになったのはいつごろだろうか。
治療や仕事で関わる、決して悪意のない人たち。より正確には、その間でパターン化されてきた考え方や習慣こそ、自分を困らせる敵ではないか、と。
しかし、そんな医療者でも信頼し、相談するしかないのが実情だ。
むやみに怒りを表に出しても、相手の成長は望めない。できるだけ笑顔でコミュニケーションをとってと、いつしか心がけるようになっていた。そのことが、カルテを取り違えた主治医への対応にも表れたのかもしれない。
自分が楽しくて笑っているのか。何かにあきれ、怒っているから笑顔を浮かべているのか、よくわからない――。そう書いていて、昔のコラムのタイトルが「道具としての笑顔」だったことを思い出した。
自分こそパターン化されているのではないかと思ったら、思わず笑っていた。そして、これはあきれによる笑いかと、画面上の文字を眺め、もういっぺん笑った。