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「あれは何だっただろう」。昨夏、メモ用紙を眺めた私は、それと似たものをどこかで見たような気がした。少し思いめぐらせて、「あれか」と気づいた。
前回の東京五輪のマラソン競技で銅メダルを取った円谷幸吉の遺書だった。
「父上様、母上様、三日とろろ美味(おい)しゅうございました。干し柿、モチも美味しゅうございました」と、それは始まる。
身内と食べ物の名前を一つ一つ挙げては「美味しゅうございました」と繰り返す単調なリズムがもの悲しい。
彼は父母にわびる。「幸吉はもうすっかり疲れ切ってしまって走れません。何卒(とぞ)お許し下さい」
この遺書を連想したのは、私の人生に一瞬だけ姿を見せたことがあったからかもしれない。
2カ所目の任地となる静岡県の沼津市内。取材先と飲みにいった店で、その知り合いにばったり会った。
5、60代の男性。小ぎれいな身なりで、穏やかにほほ笑んでいた。
きっかけは覚えていない。「円谷を知っているか」と男性から尋ねられた私は、愛想よく答えた。
「はい。なんとか美味しゅうございましたー、なんとか美味しゅうございましたー、の人ですよね」
それが、円谷を小馬鹿にしているように聞こえたらしい。急に怒り出した。
あんたみたいな若いのに何がわかるんだ。ひとりの人間が死んでいるんだぞ。その言い方はなんだ。
まあまあ、と取材先がとりなしても男性はおさまらない。ほうほうの体(てい)で二人して店を出た――。
もう20年近く前のことになる。穏やかだった男性の表情が一変した驚き。店の内装は赤っぽかったように記憶している。
それでもやはり、なぜ遺書を連想したのか、との疑問は残る。食べ物が並んでいるだけならば飲食店のメニューでもよかったのだ。死を意識していたわけでもあるまいに。
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確かにその直前、体調のことでひどく驚いたことがあった。
消化管と血管がつながってしまったかもしれない、と緊急入院先で言われたのだ。
食べ物や飲み物から血管に菌が入って高熱が出るおそれがある。もう口から飲み食いはできず、すべて点滴になるかもしれない、と。
まず思い浮かべたのは配偶者の顔だった。以前の6割にまで落ち込んだ体重がさらに減らないよう、私の食事に知恵を絞ってきたのだ。それができなくなるショックはどれほどだろうか――。
幸い、これは「仮説」で終わった。