維新前後の西郷書簡を詳しく解析された家近良樹大阪経済大学教授は、痔、大腸癌、大腸ポリープ、炎症性腸疾患(潰瘍性大腸炎、クローン病、虚血性腸炎)などの可能性を論じたうえで、過敏性腸症候群があったのではないか。その原因としていずれも強いストレスが自律神経障害を来し、加えて加齢による免疫力の低下があったのではないかとされている。(『西郷隆盛と幕末維新の政局』家近良樹)

 膨大な一次資料を読み込まれた同氏の研究には心より敬意を表するにやぶさかでないが、この診断は医史学屋として受け入れることはできない。過敏性腸症候群とは大腸の運動および分泌機能の異常で起こる病気であり、炎症や潰瘍といった器質的疾患なし下痢や便秘、腹痛と関係する便通異常が慢性的または再発性に持続する機能性消化管疾患である。ストレスによるセロトニン分泌異常や、果糖の吸収障害(石田三成を思い出されよ)、腸内細菌異常などが関与するが、本質的に腸粘膜に潰瘍性病変を作らず下血を来すことはない。そうなると潰瘍性大腸炎(UC)とクローン病(CD)よりなる炎症性腸疾患が最も可能性が高い(家近氏が炎症性腸疾患に含めている虚血性腸炎は全く別の病態である)。

 炎症性腸疾患は原因不明の慢性再燃性消化管炎症疾患であり、遺伝的な素因に加え腸管と腸内細菌の相互作用によって急性あるいは慢性炎症が遷延する。UCの多くは病変が大腸に限局し肛門から連続性の表層粘膜持続炎症が主体であり、臨床的には出血を伴った下痢が特徴である。一方、CDは多病巣性炎症を主体とし、消化管のあらゆる部位に発症しうる。いずれも疾患活動性が患者の生活に大きく影響するため、病勢の良好なコントロールが不可欠である。

 治療には、副腎皮質ステロイドや 5-アミノサリチル酸製剤などが投与されてきたが、特に副腎皮質ステロイドのみによる治療は、ステロイド依存性もしくは抵抗性に移行することがある。近年、 IBDでは粘膜免疫細胞が持続的な活性化状態にあることが判明し、TNF-αやIL-6など特定の炎症メディエーターを標的とした分子標的治療が可能となったことで患者さんの予後は著しく改善している。日本でも有名な政治家が一時期は進退を危ぶまれた体調不良から回復し長期政権を担当することができるようになったのは読者の方々もお聞き及びのことであろう。

偉大な人格者の一方で

 さて、世間では誤解をされているが、免疫の本質は自己と非自己の鑑別であって、持続的な免疫の活性化は自己免疫疾患や感染に対するコントロール不能な炎症をもたらす。従って、免疫力を高めれば病気が治るというのは完全な誤解であり、制御性T細胞や抑制性サイトカインによる寛容が重要である。寛容(Tolerance)自体 比較的新しい言葉であり、宗教戦争で殺伐とした16世紀ヨーロッパに異なった立場の共生を認めるために提唱された(「愛について」香久山雨2017)。同義語は遡ると古代ローマ(キリスト教以前)のClementiaに行きつく。日本の八百万の神々には及ばないものの古代ローマでは非征服者に市民権を与えるにあたって、彼ら彼女らの信仰する神々をローマ多神教に鷹揚に取り入れていった。現代風にいうと多様な価値観を受け入れることができたのであろう。

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