ヘディングプレーで全国的に注目を浴び、40年近く経った今もなお語り草になっている宇野は、「ヘディング自体は翌日のスポーツ紙で記事にされることを覚悟していたものの、“事件”という嫌な響きを持つ表現で書かれたことが相当こたえた」と述懐している。

 グラウンド上の珍プレーを“事件”と呼ぶのは、確かに違和感があるが、実は、宇野はこの4カ月前にも、もうひとつの“事件”の主役になっていた。

 1981年4月24日の大洋戦(横浜)、球場入りした宇野はうっかりユニホームを名古屋に忘れてきたことに気づき、「さあ、どうしよう?」と慌てた。

 だが、ないものは仕方がない。大洋側の了承を取りつけたうえで、体格がほぼ同サイズだった飯田幸夫コーチの背番号77のユニホームを借りて、試合に出場した。ふだん背番号7をつけている宇野が7を2つも背負って登場したことから、当然相手チームから情け容赦なく野次が浴びせられた。

 普通の選手なら萎縮してもおかしくないところだが、宇野はものともせず、2対1で迎えた4回の2打席目、野村収から中越えに豪快な一発を放つ。

 背番号77は7回の4打席目にもダメ押し点につながる右前安打を記録し、背番号のとおり、ダブル級の働き。「これでチョンボの帳消しはできた」とニンマリだった。ちなみに2004年に打撃コーチとして中日に復帰した宇野は、この日と同じ因縁の背番号77をつけている。

 横浜スタジアムの大洋戦といえば、宇野は“背番号77事件”から3年後の84年5月5日にも、珍プレーの主役を演じている。

 3回1死満塁、宇野は欠端光則から右翼線ギリギリのフライを打ち上げた。飛球は風に流され、ライトの高木由一が必死にグラブを差し出したが、落球(記録はエラー)。「やったあ!」と喜んだ宇野は、全力疾走で一塁ベースを蹴り、二塁を狙った。

 ところが、一、二塁間のハーフウェイでは、一塁走者・大島康徳が打球の行方を見守りながら自重していた。高木の落球を見て、大島もスタートを切ったが、後方から宇野が猛スピードで追い上げてくる

「オイ、待て、止まれ!」

 二塁ベース手前で振り返った大島が両手を突き出し、必死に制止したにもかかわらず、「二塁に行くことしか頭になかった」宇野は止まることができない。勢い余って大島を追い越してしまい、公認野球規則7.08によりアウトになった(記録は走塁死)。

「またやっちゃったよ……」と赤面しながらベンチに戻った宇野を、「またウーやんか!」とナインが大爆笑で迎えたのは言うまでもない。

 18年間の現役生活で通算打率2割6分2厘、歴代34位の338本塁打を記録した宇野だが、珍プレーでも守備、打撃、走塁の“三冠王”としてファンの記憶に長く残る伝説の男になった。  

●プロフィール
久保田龍雄
1960年生まれ。東京都出身。中央大学文学部卒業後、地方紙の記者を経て独立。プロアマ問わず野球を中心に執筆活動を展開している。きめの細かいデータと史実に基づいた考察には定評がある。

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