実態は、血液検査で示されるような「体力」が弱まり、強い副作用がある抗がん剤を使えなくなっただけなのだが。帰りの電車で足ががくがくと震え始め、「やっぱり病気なんだな」と家で配偶者にこぼした。

 不思議なものだ。無意識に防衛本能が働くのか、体がしんどくないと、叫び声の一夜に実感した「死」の手触りが遠のいてしまう。

 配偶者とお菓子をつまみながらテレビでお笑いを見る。ベッドで本を開いたものの、日付が変わらないうちにうとうとし始める。そんな小春日和のような幸せに、どっぷり漬かりそうになる。
だから逆に、ふと思い立った時には「俺は死ぬんだぞ?」と自分に確かめることにしている。当然、気分はざらつく。しかし、私の場合、ものごとを突き詰めて考え、書くというもう一つの幸せを味わうには、時間に限りがあるという切迫感が欠かせないのだ。

●誰もが持つ寿命の砂時計

 最近読んだ中野翠著『この世は落語』(ちくま文庫)にこんな一節があった。

 珍しく生真面目な気分のひとときを過ごし、何となく魂を浄化されたような、ある種の「いい気持」になる――それもまた娯楽なのだ。

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