歴史上の人物が何の病気で死んだのかについて書かれた書物は多い。しかし、医学的問題が歴史の人物の行動にどのような影響を与えたかについて書かれたものは、そうないだろう。
日本大学医学部・早川智教授の著書『戦国武将を診る』(朝日新聞出版)はまさに、名だたる戦国武将たちがどのような病気を抱え、それによってどのように歴史が形づくられたことについて、独自の視点で分析し、診断した稀有な本である。本書の中から、早川教授が診断した徳川家康の症例を紹介したい。
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【徳川家康(1542~1616)】
医学系の学会にはさまざまな国から研究者を招待することが多い。日本に何度も来ている教授連中はスシ、サシミ好きが多いが、東欧や東南アジア出身で生魚には抵抗がある人も少なくない。その点、今まで天ぷらでもてなしてハズレはない。特にお座敷天ぷらのカウンターは興味津々のようだが、天ぷらも、過食は命に関わることもある。
■戦国の最終勝者
徳川家康は三河国の小領主・松平広忠の子として天文11年(1542年)岡崎城に生まれた。幼名は竹千代、6歳の時に父の命で駿府へ送られるが、その途中織田信秀配下に捕らえられて尾張へ、2年後に人質交換で駿府へ移される。今川義元の下で元服し、松平次郎三郎元信と名乗り、その後蔵人佐元康と改めた。父の死後は義元の軍師でもあった太原雪斎の指導を受けた。永禄3年(1560年)、桶狭間の戦いで義元が討たれると、前線にあった元康は、今川軍が放棄した岡崎城に入り自立する。
今川氏真と断交し信長と同盟、翌年には元康の「元」の字を取って家康と名を改め三河を統一する。信長には妻と最愛の長男信康を殺害、切腹させられるなど理不尽な仕打ちも受けたが、上洛支援や朝倉・浅井の連合軍を姉川で破るなど誠実に尽くす。天正10年(1582年)、宿敵武田を滅ぼした後、駿河拝領の礼のため安土城の信長を訪れ、さらに堺で遊覧中に本能寺の変に遭遇する。すんでの所を京都の商人、茶屋四郎次郎清延の案内で脱出。
早川智
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