たとえば、前田が昨年、好演したドラマに「毒島ゆり子のせきらら日記」(TBS系)がある。主演した前田は、二股や不倫など奔放な恋愛生活を送る新人の政治記者を演じた。同作の彼女について、ラブシーンの多さをもってアイドルを脱し、「大人の女性」を演じきったとする評価が目立った。
けれど、そうした声は、ラブシーンの有無という形式から想起しやすい、旧式でわかりやすい評価軸が使いまわされているにすぎない。さらに、もう一言、話を広げるならば、とりわけ若手女優について、ラブシーンの過激さや肌の露出などを尺度にして投げかけられる、「体当たりの演技」「女優魂」といったステレオタイプな“褒め言葉”は、往々にして演者に対する「無意識の見くびり」を含んだものだ。俳優への評価は、そうした旧来的な「成熟観」によるべきではないだろう。
こと前田敦子に関していえば、彼女が「アイドル」として放っていた個性は、女優を務めるうえで、必ずしも手放さなければならないものではない。
彼女はAKB48の象徴として、ながらく女性アイドルの中心にいた。にもかかわらず、あるいはあまりに絶対的中心でありすぎたがゆえに、常にアイドルシーンの中に溶け込みきることがない、孤高さを漂わせる異質な存在でもあった。