1月28日は旧暦のお正月。日本ではほとんど意識されることがなくなった旧暦だが、日本に太陽暦(現在の暦)が導入されたのはわずか145年前のこと。飛鳥時代から明治時代までは一貫して太陰暦と呼ばれる旧暦が使用されていた。しかも江戸時代に至るまで、中国で編さんされた暦しか日本にはなかったのだ。
●「犬公方」の実母・桂昌院
江戸時代には、平安時代に伝えられた暦を800年以上にもわたり使い続けていたため、すでにあちこちに不便が生じていた。古い暦の改正に取り組み、初めて日本人の手で編さんされた新しい暦が誕生したのが1685年。編さん者は渋川春海という天文学者で、これを命じたのは五代将軍・徳川綱吉だった。
徳川綱吉は、徳川幕府の体制を盤石にしたと言われる三代将軍・家光の四男である。ほとんどの日本人はこの将軍について、生類憐みの令や、犬を過度に大切にさせたことからつけられた「犬公方」というあだ名しか知らないのではないだろうか。しかし近年の研究では、綱吉と実母・桂昌院の時代に、それまでの政治から180度変わったのではないか、という説も出始めている。
●江戸時代のシンデレラ・桂昌院
桂昌院は、日本の神社仏閣にある建造物を大いに救ってくれた人物だ。これは、波乱に満ちた彼女の人生に裏打ちされた行為と言ってもよいかもしれない。
桂昌院は、元の名を“お玉”と言った。京都・西陣の八百屋の娘として生まれ、母の再婚や義理の父のあっせんなどもあり、13歳で大奥に侍女として上がる。その後19歳で春日局(家光の乳母。実母という説もある)の目に留まり、やがて家光の側室となった。
最終的に、女性としては最高位である官位(従一位という上から2つ目の位)まで上り詰めるのだが、こうした桂昌院のシンデレラのような出世を指して、「玉の輿」という言葉が生まれたのではないか、とも言われている。
●神仏からの加護へのお返し
桂昌院は、2度ほど僧侶に「あなたの産む子は天下人になる」と言われている。しかしながら、わが子・徳松(のちの綱吉)は四男である。本来ならば将軍の椅子が回ってくることはないはずなのだが、桂昌院はこの僧たちの言葉を信じ、幼い頃から徳松に学問中心の生活をさせた。今でいう帝王学を学んだ綱吉は、34歳の時ついに将軍職への道が開き、54歳となった桂昌院は将軍の実母の地位に座ることになる。
この出世を神仏の加護と考えた桂昌院は、以後、日本全国の寺社に大いなる寄進と普請を進めていった。奈良・東大寺の大仏殿をはじめ、法隆寺、唐招提寺、恩のある善峯寺の復興、東京文京区の護国寺の建立など、まさに今現在残る多くの遺産の保全と建築に桂昌院と綱吉は関わっている。