歴史上の人物が何の病気で死んだのかについて書かれた書物は多い。しかし、医学的問題が歴史の人物の行動にどのような影響を与えたかについて書かれたものは、そうないだろう。
日本大学医学部・早川智教授の著書『戦国武将を診る』(朝日新聞出版)はまさに、名だたる戦国武将たちがどのような病気を抱え、それによってどのように歴史が形づくられたことについて、独自の視点で分析し、診断した稀有な本である。特別に本書の中から、早川教授が診断した、足利尊氏の症例を紹介したい。
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足利尊氏(1305~1358 年)
【診断・考察】糖尿病(双極性障害)
毀誉褒貶(きよほうへん)は人の世の常ながら足利尊氏ほど、戦前と戦後で評価の変わった人物は少ないかもしれない。足利氏は源氏の嫡流で、尊氏は嘉元3年(1305年)7月27日に鎌倉幕府の有力御家人貞氏の次男として生まれた。15歳にして元服、従五位下治部大輔(じぶのたいふ)に任ぜられ北条高時の偏諱(へんき)を賜り高氏と名乗った。父の死により足利氏の家督を相続、倒幕を図る後醍醐天皇の挙兵を討つが、元弘3年/正慶2年(1333年)隠岐を脱した後醍醐天皇の綸旨(りんじ)を受けて寝返り、丹波国で反幕府の兵を挙げた。播磨の赤松円心、近江の佐々木道誉(どうよ)らとともに六波羅探題を滅亡。関東では、新田義貞が尊氏の嫡男千寿王を旗頭に鎌倉幕府を滅ぼした。
尊氏は鎮守府将軍・左兵衛督に任じ天皇の名尊治(たかはる)から一字を賜った。しかし北条残党の挙兵に際しては念願の征夷大将軍は与えられず、天皇の許可を得ないまま鎌倉を回復。そのまま鎌倉に本拠を置き、武家政権運営を始めた。天皇は新田義貞に尊氏討伐を命令、尊氏は隠居を宣言し出家する。しかし、弟直義らが劣勢となると、持明院統の光厳上皇と連絡を取り北朝擁立。しかしほどなくして奥州から大軍を率いて上洛した北畠顕家(あきいえ)と楠木正成・新田義貞に敗れ九州に逃れる。
やがて満を持して再上洛、義貞・正成を破るが、再び遁世願望が頭をもたげ実権を直義に譲る。後醍醐天皇が京を脱出して吉野へ逃れると尊氏は光明天皇から征夷大将軍に任じられ、室町幕府を開く。しかし翌年、後醍醐天皇が吉野で崩御。悲しみに暮れた尊氏は天龍寺を造営した。やがて、理想主義の弟直義と現実派の高師直(こうのもろなお)らの権力闘争は内乱となり、双方ともに惨死、その後尊氏の庶子で直義猶子の直冬(ただふゆ)が九州で反乱、尊氏は討伐を企てるが、正平13年/延文3年(1358年)4月30日、背中の腫れ物がもとで、京都にて死去した。享年54。