戦争が始まってすぐのころには、自身も大ケガを負い、入院するはめに陥った。
「実は、後ろのポケットにピストルを隠し持っていたところ、私の手が触れて引き金が引かれてしまい、弾が自分の体を貫通したんです。それで、私のお尻は5センチほど削れてしまったのです」
街の名士が撃たれたという話はすぐに市民の間に伝わった。自分で撃ってしまったと言っても信じてもらえないような状況だった。このころには、ハリルホジッチの名は、活躍したサッカー選手としてだけでなく、次第に、国の英雄として広まっていたのだ。愛する街に残り、人々を守ろうとする姿勢が共感を呼んでいたのである。実際、松葉杖をつきながら、飛びまわっていた。
「裕福な人やフットボール選手がみんな国を捨てて逃げて行きました。でも、私は、爆撃を受ける街に残って女性や子どもたちを避難させるための活動を続けた。少し貯えていたお金をそのオーガナイズのために使っているということも有名になったんですね。でも、それで、困った状況も起きました。みんなが私にお金を要求するようになってしまったんです。本当にがっかりしてます、この戦争には。宗教が複雑に絡み合い、プロパガンダも絡み合って、非常に複雑で難しい状況が生まれていました」
だが、戦争は悪化の一途をたどっていた。
「何回か私は、死ぬ間際までいった。殺されそうにもなった。爆撃でケガもしました。私の家に暴徒が来て、家の中のすべてのものを盗み、家を焼いて、破壊して、このとき私はもっていたもののすべてを失いました。経営していた店もすべてなくしました」
戦火の旧ユーゴスラビアを無一文で離れたハリルホジッチは、家族の待つフランスのパリへと渡る。
「29平方メートルのアパートでした。故郷の家は大きかったけれど、まあ、違う人生を歩まなければならなくなったわけです」
フランスでの生活は容易ではなかった。
「プロ監督労働協会というところから、ヴァイッドは、ライセンスをもっていないから、トレーニングをしてはいけないという通達が来たんです。私は、そこからライセンスを得るための努力をしなければなりませんでした。もう、そのときは、生活するのがギリギリぐらいのお金しかなかった。ただ、家族を食べさせなければいけなかったし、子どもたちも学校にやらなければならなかったので、本当に困難な時代でした」
それでも、ハリルホジッチは、諦めることなく、次の目標に向かって歩きはじめる。そして、1995年、フランス国籍を取得したことで、その人生はまた大きく変わりはじめるのである。(文/一志治夫)