「フォワードとして優秀だったので、イングランドやドイツなど多くのクラブが私を求めた。そのなかには、とてもいい契約条件を示しているところもあったけれど、フランスでプレーしている友人がフランスはすばらしいところだ、特にナントはいま強いよと言ってくれて、ナントを選択したんです」

 現在、ハリルホジッチは、選手への指示や記者会見などすべてフランス語で対応しているわけだが、実のところ、FCナントに入るまではひと言もしゃべれなかった。渡仏ののち、家庭教師をつけて、必死で学んだのである。

 ナント(フランス)で5年間プレーし、92ゴールを挙げて2度の得点王に輝いたハリルホジッチは、86年、名門パリ・サンジェルマンFCに移籍する。が、ここは、1年足らずで辞めざるを得なくなる。「大好きな母が亡くなり、(旧ユーゴスラビアへ)帰郷することにした」からだ。選手時代よりずっと長い新たな人生が始まったのだ。

「17年間サッカーをやりつづけたので、お金もありましたし、違うことに挑戦したいという思いもあって、カフェとバール、洋服を扱うブティック、パン屋、ケーキ屋などのビジネスを友人たちと始めました。店はすごく有名になったし、商売はうまくいってました。美しい家も買いましたし」

 しかし、平穏な生活は、長く続かない。

「残念ながら、普通の世界に戻って1年後に戦争が始まってしまったんです。デリケートな時代に入っていったんです。たくさんの問題が起きました。私の家族、妻と2人の子どもはパリに逃げて、私は街を守るためにひとり残りました。2年近く、人々を助けるため、人々の命を救うため、残って貢献しました」
 旧ユーゴスラビアは混乱の時代に突入していた。民族間の争いが激化し、ボスニア・ヘルツェゴビナの至るところで火種がつきはじめ、複雑な戦いが始まったのだ。

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