約20年を経て復活した一円電車「くろがね号」
約20年を経て復活した一円電車「くろがね号」
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車内は天井に頭が付きそうな狭さ。窓には鉄格子が付いている
車内は天井に頭が付きそうな狭さ。窓には鉄格子が付いている
鉱山のお偉いさんが乗っていたという「白金号」も展示されている
鉱山のお偉いさんが乗っていたという「白金号」も展示されている

 兵庫県北部の山あいにある養父(やぶ)市大屋町明延。JR八鹿駅からバスで約1時間かかる山奥だが、昭和の終わりまで、スズの国内生産の約9割を担っていた明延鉱山の街として栄えたこの地には、かつて1人1円で乗れた電車が走っていた。鉱山の閉山と共に役目を終えたが、住民らの手により、再び運賃1円で走り始めている。

 15年7月4日、明延で開かれた「一円電車」の体験乗車会。人口約100人の小さな集落は、県内外から訪れた鉄道ファンや親子連れらでにぎわっていた。大人も子どもも、長さ約5.8メートル、幅約1.3メートル、高さ約1.9メートルの小さな客車「くろがね号」が、約70メートルの軌道を走る様子を楽しそうに見つめている。

「一円電車」の名前で親しまれた明神電車は1945年に開業、52年から85年までの33年間は、1円で人々を運び続けた。明延から、選鉱場があった朝来市の神子畑(みこばた)までの約6キロを、30分かけて走っていたのだ。鉱山の従業員や家族らは、この電車を使って山を越え、神子畑からはバスや旧国鉄の播但線を乗り継いで姫路や大阪まで出かけていたという。

 もともとは、鉱石輸送用のトロッコ路線に客車を走らせたのが始まりだ。それまでは、人々は鉱石のすき間に乗り、トロッコで運んでもらっていたという。当初の運賃は1人50銭だったが、52年に1円に値上げした。鉱山関係者や家族以外の一般客は10円だった。

 戦後、物価が上がり続けても運賃を据え置きし続けた結果、1960年代後半から全国的に注目を集めるようになった。山奥の街に電車目当ての観光客らが押し寄せ、運賃を1円に統一。一円電車ブームを紹介した74年の新聞記事によると、1カ月の収支は、運転経費80万円に対し、収入は8000円前後。完全な“赤字路線”だが、鉱山関係者へのサービスとして運行を続けたという。

 トロッコ仕様のため、レール幅は、現在の新幹線の約半分の76.2センチ。乗り心地は、「自分が鉱石になった感じ」といい、決して快適ではなかったようだ。当時の新聞によると、スピードは時速12キロと自転車並み。真っ暗なトンネルの中、振動で車内の裸電球が明るくなったり暗くなったりして、スリリングだったという。

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