「息子の大学進学を契機にあらためて自分の人生を考えていた」という時期にオファーを受けた。背番号の「16」は、7月16日生まれの息子にちなんで決めた。子育てをほぼ終了し、「野球人としてもう一度頑張りたい」という決意に満ちた会見だった。「子どもたちが野球を好きになってほしい」「吉岡監督の力になりたい」と意欲を示したうえで、「不安があるとすれば実戦から遠ざかっていること」と付け加えた。
日本での生活に不安はなく、1日は都内で焼き肉、2日は高岡市内で刺し身を味わった。日本の食事には慣れている。NPB時代、バイク通勤で物議をかもしたことを振り返り、「富山では自転車で通勤します」と言って笑いを誘った。
吉岡監督は終始笑顔で、ローズのユニホーム姿に目を細めた。12年ぶりに同じチームで戦うことについて「横にいるのがまだ信じられない。独立リーグに来てくれることに感謝している。いるだけで存在感がある。選手もファンの皆さんも、ローズの素晴らしい人間性を感じ取ってほしい」と述べた。
吉岡監督は現役時代、ローズに救われたことがあった。近鉄入団1年目の1997年、打撃がなかなか上向かず苦しんでいた時、ふと手に取ったローズのバットが手になじんだ。重さは約910グラム、芯が太く、振りやすく、しっくりきたとのこと。以後、1軍定着を果たし、翌年からは「いてまえ打線」の一角を担うようになった。
現在、富山は勝率3割9分1厘で現在、西地区の3位。2位で勝率5割8分3厘の信濃グランセローズには大きく水をあけられている。また、吉岡監督にとっては、米国出身の選手と細かいコミュニケーションが取れないことが悩みだった。球団としては専属の通訳など雇えない苦しい台所事情もある。ローズの加入は戦力や語学力、指導力、ユーモアセンス、人間力、集客力など効果は大きいだろう。
ローズは米国出身で、アストロズ、カブス、レッドソックスを経て来日、13年間NPBでプレーした。1996年から8年間は近鉄に在籍し、99年に本塁打王と打点王の2冠を獲得した。2001年には王貞治が持っていた当時の日本記録に並ぶ55本塁打を放って2度目の本塁打王となり、リーグ制覇に貢献。04年から2年間は巨人、1年間のブランクを挟んで07年から3年間オリックスでプレーし、09年に引退した。日本での通算成績は打率2割8分6厘、464本塁打、1269打点。
会見は、ローズ、吉岡監督のほか、球団からは永森茂社長、伊東孝悦GM、チームのホームタウンである高岡市の高橋正樹市長も出席して行われた。
(ライター・若林朋子)