「日本になじみ過ぎた」という表現が最もふさわしい助っ人は、1955年に阪急に入団したキューバ出身のバルボンだ。
「日本はキューバと同じ島国だ」と聞いて親しみを覚えたのが来日の決め手となったが、同じ島国でも、暑いキューバと違って、日本には冬があった。バルボンは来日早々耳がちぎれそうな寒さに悲鳴を上げ、通訳も不在で、生活習慣の違いに戸惑いながらも、1年目に49盗塁を記録。食生活の違う日本で唯一口に合ったチキンライスを朝昼晩と食べて、プレーを続けた。そして、毎日自宅から西宮球場に自転車通勤し、ファンが話しかけると、覚えたばかりの関西弁で気さくに応じた。
当初は3年で帰国するつもりだったが、キューバ革命の影響で入国できなくなったことから、悩みに悩んだ末、当時交際していた日本人女性と結婚。日本に骨をうずめる決心をする。
阪急、近鉄で計11年間プレーしたあと、神戸でステーキ店を経営していたが、75年にベネズエラ出身のマルカーノが阪急に入団したのを機にスペイン語、英語の通訳として球団職員になり、阪急、オリックスを陰から支えつづけた。
来日後、半世紀以上も日本で生活している助っ人は、もちろん彼だけである。
バルボンが通訳を務めたマルカーノは、ルーツそのものが日本だった。「私の曽祖父は日本人」と自らのルーツを明かし、調査を依頼したところ、曽祖父は熊本・天草出身で、明治時代にペルー移民として海を渡ったあと、ベネズエラに移住した人物と推定された。
78年6月10日の日本ハム戦(後楽園)、エース・山田久志がリリーフした場面でサヨナラ負けにつながる一塁悪送球を演じたマルカーノは、「ヤマ、スマナイ……。ゴメンナサイ」と泣きじゃくった。“心は純日本人”とも言うべき律義さに、山田も「20年間の現役生活で外国人選手の涙を見たのはあとにも先にもこのときだけ」と感動し、「私にとって最高の助っ人です」と回想している。
ヤクルトも含めて日本で計11年間プレーしたマルカーノは、現役引退後、巨人に入団した旧知のサンチェの通訳として再来日。帰国後の90年11月、肺がんのため、39歳の若さでこの世を去ったが、亡くなる直前まで「日本でまた野球の仕事がしたい」と“祖国”に思いを馳せていたという。