50年に及ぶ格闘人生を終え、ようやく手にした「何もしない毎日」に喜んでいたのも束の間、突然患った大病を乗り越えて、カムバックを果たした天龍源一郎さん。2月2日に迎えた70歳という節目の年に、いま天龍さんが伝えたいこととは? 今回は「旗揚げ」をテーマに、飄々と明るく、つれづれに語ります。
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相撲部屋に入門したときは「一旗揚げてやろう」っていう野心は不思議と最初全くなかったんだよね。というのも、俺はまだ13歳のガキで、夏休みに相撲部屋というのはどういうものか経験して来いっていうのが最初。
俺が行った時、喧しい先輩が巡業に出ていなくってたんだよ。15~16歳の歳の近い人たちが10人くらいいただけだった。関取衆はもちろん大鵬さんもいない気楽なところに俺は加わったから、朝は8時頃に起きて稽古して、一時間くらい稽古したら、風呂入って、ご飯食べて、昼寝して。
夜になったら、俺が福井の田舎から出て来たあんちゃんだからって、錦糸町だ、浅草だってあっちこっち連れ回して東京見物させてくれた。舟木一夫さんの「高校三年生」とか、そういう歌がヒットした頃で東京への憧れがすごくあった時だよ。手を上げればタクシーが止まって、当時、相撲部屋のあった両国から錦糸町まで60円~80円。色々なことが便利になっていった時代に、その便利さの全てがあるのが東京だったから浮かれたな。
そんな生活が1カ月続いて、「あぁ相撲界ってこういう所なんだ」って思い描いていたところに、巡業からうるさがたが大挙して帰ってきた。帰ってきたら、部屋の中は鬢付け油のニオイ。そのニオイには慣れないし、体力をつけるためにニンニクを食っているから、もう、鬢付け油とニンニクの混ざり合った臭いで閉口したよ(笑)。
それまで朝の8時頃起きていたのに、先輩たちがいると3時半にたたき起こされて、稽古して、ご飯食べてと激変したけど、俺の中では、「あ、これが相撲部屋の生活っていうものなんだ」って自然と迎合できた。「これくらい厳しくなければ相撲ではない」って受け入れられた俺がいたんだよね。
そんなときに親父から、「転校手続きとかいろいろ色々あるから田舎に帰って来い」と言われて福井に戻るんだけど、福井駅での親父の第一声が「おまえ、相撲部屋に入れると思っているだろうが、とんでもない!嶋田家の長男なんだからな!」と帰ったその日に冷や水を浴びせられた。
親父は俺がこのまま相撲取りになってしまうことを危惧して、一旦田舎に帰そうときっかけを作ったんだ。「行けって言ったのは親父じゃないか!」って思った反面、嶋田家を継ぐのは俺しかいないよなとも思った。