ティー打撃をする巨人の落合選手(c)朝日新聞社
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 打撃投手は、日本球界独特の職種である。1962年ごろに、読売ジャイアンツ(以下巨人)の監督川上哲治が、練習時間の長さのため、打撃練習専用の投手の必要性を感じて導入したと言われている。それまでは主に控え投手が投げていた。以来各球団も打撃投手を置き、現在は各球団に10名前後がいる。多くが、現役引退後、制球力のよさを買われて打撃投手として生きてゆく。彼らは毎日100球以上を投げ、打者の要求するコースへ、打ちやすい球を投げる。米国では日本ほど練習をしないので、マシンの打撃練習が主体で、コーチが投げる程度である。

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■「オレ流」に徹した打撃投手

 スター選手は自分が気に入った打撃投手の球をいつも打つ。行動も共にするので、彼らは「王の恋人」「松井の恋人」「イチローの恋人」などと呼ばれる。その中でもっとも苦労したのが、「落合の恋人」だろう。
 
 落合博満(ロッテ中日、巨人、日本ハム)は三冠王3回、MVP2回、首位打者5回、本塁打王5回、打点王5回と燦然たる実績があるが、「オレ流」の調整方法を貫く。落合は打撃投手に、山なりの時速40キロから80キロのスローボールを要求する。この球を投げるためには、下半身、肩や腕を同時に使って投げなければならない。これは打撃投手にとって大変難しい。

 落合が94年にFAで巨人に来たとき、ベテランの打撃投手が担当したが、イップスになりキャッチボールも満足にできなくなった。その次の担当の打撃投手もイップスになった。

 ところが落合の相手をそれほどの苦もなく務めた男がいる。中日で彼の打撃投手を務めた渡部司である。彼はなぜ成功したのだろうか。そこに打撃投手というプロフェッショナルな誇りが見えてくる。

 渡部は70年にドラフト2位で中日に即戦力として入団したが、大成できず79年に引退し、打撃投手として生きることになった。落合が中日に来て2年目(88年)に、彼が「自分に投げてくれませんか」と渡部に頼んだのが始まりである。落合は他の5人の打撃投手を見て、渡部の球がやはり自分に合っていると感じたのだ。落合はなぜ緩い球を打とうとするのか。渡部は答えてくれた。

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