ギャンブル好きで知られる直木賞作家・黒川博行氏の連載『出たとこ勝負』。今回は自身のサラリーマン時代について。
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前々週の『わたしの新人社員時代(1)』のつづきです。
1973年、ダイエーに入社したわたしは建設部店舗意匠課に配属された。課長以下、課員が五人(うちひとりは経理事務の女子社員だった)。仕事は新店の内外装計画だったが、わたしはほとんど興味がなく、ただ給料をもらうために日々、通勤していた。残業などはもちろんせず、六時になると同じフロアの麻雀仲間と近くの雀荘に集合し、終電の時間まで打つ。週に二回はしただろうか。麻雀が終わると、その場で精算はせず、点数を記録した紙を翌日、集計係に渡す。集計係は月末に全員の勝ち負けを計算し、負けたひとから集金して五パーセントの手数料をとったあと、勝ったひとに配るというシステムだった。わたしは毎月、税金のかからない小遣いを五万円は稼いだから、給料の手取りが七万円しかなかった身にはずいぶんありがたかった(ちなみに、この集計係はわたしより少し年上のとっぽい男だったが、ダイエーが南海ホークスを買収して福岡ドームを建設したとき、億単位の金を横領して新聞沙汰になった)。
そんなふうに麻雀ばかりしていたから、わたしはよく遅刻して課長に怒られた。課長はエキセントリックで気分の変動が大きく、それが顔に出た。もともとはダイエーに出入りしていた内装業者の営業担当だったが、ダイエーの建設本部長にスカウトされて課長になったという経緯があった。昨日まで接待する側が今日は接待される側にまわったのだから、ひとは勘ちがいする。課長はほぼ毎日、四時ごろになると、市場調査と称して外出し、懇意の内装業者(年間十億円は発注していた)の事務所に行って夜を待つ。そうしてキタやミナミに出て接待酒を飲む。少しは後ろめたいのか、課長は課員の機嫌をとろうと、たまに飲み会をしたが、その飲み代は業者にまわしていたから、つける薬がない。課長と課員は完全に離反していた。