W杯では実力を発揮できなかった中村俊輔 (c)朝日新聞社
W杯では実力を発揮できなかった中村俊輔 (c)朝日新聞社
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 アジアと世界の間で戦う日本サッカーにおいて、「予選」と「本大会」の差は大きいと言わざるを得ない。戦力的に立場、戦い方を変える必要がある中で、予選では活躍しても本大会では振るわなかった選手、あるいは本大会のメンバーから漏れた選手、チーム編成や怪我などで本大会とは縁がなかった選手たちがいる。

「W杯」に目を向けると、日本が初出場した1998年のフランス大会のチームで今でも語られるのが、“キング”三浦知良の落選である。1993年のJリーグ開幕時からスター選手として活躍して人気を集め、日本代表としても1990年の代表デビューからオフト、ファルカン、加茂周と監督が代わった中でもエースに君臨した。

 フランス行きを目指したアジア最終予選でも初戦のウズベキスタン戦で4ゴール大爆発の好スタートを切ったが、その後は不振に喘ぎ、最後の最後でメンバー落ち。岡田武史監督の口から「外れるのはカズ、三浦カズ」と発表され、大会直前の合宿地・スイスから失意の帰国を強いられた。「魂は置いてきた」と発言したカズだったが、1993年の“ドーハの悲劇”も含め、W杯本大会とは縁がなかった。

 地元開催に沸いた2002年の日韓大会では、当時23歳だった“天才レフティー”中村俊輔がメンバー落ちした。桐光学園高校から横浜Mに入団した4年目の2000年にJリーグ最優秀選手に輝くなど、すでに才能を開花させていたが、トルシエ監督のチーム戦術への適応に苦しみ、最終的にベテランの中山雅史、秋田豊がサブライズ選出された一方で、監督から“不要”とされた。

 その日韓大会ではもう一人、メンバーに選ばれながらも悔しい時間を過ごした男として、森岡隆三がいる。“フラット3の申し子”としてトルシエ監督に重用され、本大会ではキャプテンに指名されるほどの信頼を得ていたが、初戦のベルギー戦で負傷退場すると、日本が史上初の決勝トーナメント進出の歓喜に沸く中、痛みが続いて満足にプレーできず。代役の宮本恒靖が“バットマン”スタイルで脚光を浴びる傍ら、再びW杯のピッチに立つことはできなかった。

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続く2006年のドイツ大会では…