2016年7月に神奈川県相模原市の障害者施設「津久井やまゆり園」で起きた大量殺傷事件から4年。45人の死傷者を出した平成最悪の殺傷事件は、今年3月に死刑判決が確定した。
裁判での証言や供述調書、植松聖死刑囚と記者との面会記録を中心に、取材記録をまとめた『相模原障害者殺傷事件』(朝日新聞取材班・著、朝日文庫)に詳しく綴られている。
この事件は社会に何を突きつけたのか――。事件発生から取材を続けてきた朝日新聞横浜総局次長・太田泉生が振り返る。
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「津久井やまゆり園」の殺傷事件からまもなく4年。私は事件発生当初から死刑判決の確定まで継続取材し、植松聖死刑囚(30)とも7回面会した。障害者を不当に差別する植松死刑囚のことばに共感する事はあり得ない。だが、私のなかに差別意識はないのか、常に突きつけられる思いがした。
「障害者は不幸を作ることしかできません」
「全人類が心の隅に隠した想いを声に出し、実行する」
植松死刑囚が事件の半年前に衆院議長に宛てて出した、「犯行予告」ともいうべき手紙の一節だ。事件直後に同僚記者が入手し、読んだときのなんともいえぬ嫌な気持ちを今でも覚えている。いのちの尊厳や権利をどんなに訴えようとも「きれいごとだ」と切り捨て、「そんなこと本当は誰も思っていないだろう」と突きつけるかのような、強い露悪性を感じた。
裁判が近づいた昨年10月から、植松死刑囚(当時は被告)と面会を重ねた。なぜ不当な差別意識を募らせたのか。生い立ちから探った。
植松死刑囚は、障害者との接点が多い環境で育った。小中学校には複数の障害児が在籍した。学校の近くには津久井やまゆり園があって、散歩する利用者が地域を行き交った。
幼少期に、差別意識の萌芽を感じさせるエピソードはいくつかある。だが強い敵意や憎悪があったようには感じられなかった。思春期にどんな障害者観を持っていたのか、面会で尋ねた。
「障害者を『キモい』とか『汚い』とか言って、弱い者いじめってあるじゃないですか。そういうのはよくないと思ってましたよ」
「でも、社会、いや学校とかで教わったことを口に出してるだけで、自分の考えではないですね」