草刈正雄さん(撮影/金子淳)
草刈正雄さん(撮影/金子淳)
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『人生に必要な知恵はすべてホンから学んだ』より
『人生に必要な知恵はすべてホンから学んだ』より


 NHK大河ドラマ「真田丸」、朝ドラ「なつぞら」と、大ヒットドラマに連続して出演し、その個性的な演技で強烈なインパクトを残した俳優・草刈正雄さん。今年、芸能生活50周年を迎えた草刈さんが著書『人生に必要な知恵はすべてホンから学んだ』(朝日新書)で明かした、亡き母への複雑な想いとは? 本書より一部を抜粋・再構成してお届けする。

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母と僕と映画と

 原点は母だ──。歳を取るにつれて、そう思います。

 10年前に他界した母と僕のあいだには、いまだに言葉にするのが難しい距離がありました。互いに互いを遠くから気遣うような、そんな付かず離れずの感覚です。はたから見れば、仲のいい親子に見えたかもしれない。事実、そうでした。でも、お互いに本心をぶつけあってきたかといえば、必ずしもそうとはいえません。あのとき、あんなふうに言えばよかったんじゃないか。あの日だって、もっと違う接し方があったんじゃないか。いまでも練習問題は続いている。永遠の宿題です。

 母一人子一人の関係でした。父はアメリカの軍人で、朝鮮戦争で亡くなりました。福岡県の東、行橋(ゆくはし)で母は僕を産み、物心がついた頃には二人で小倉に住んでいました。

「バービィ!」

 チビの僕をこう呼ぶ母に、「ママ」と応えていた。小学校ではものすごくからかわれました。母に手紙を書くという授業で、「ママへ」と書いてしまったんです。当時、母親のことを「ママ」と呼ぶ子どもはいません。みんな、「お母さんへ」。でも、その日から急に変えられるものでもありません。母こそ「バービィ」は早々にやめて「マコちゃん」とか「マコ」と僕を呼んでいましたが、こちらは終生、そのまま。17歳で単身上京してから2年目に、東京に母を呼び寄せたんですが、その後も曖昧に「マァア、マァア」。僕に家庭ができたある時期は別々でしたが、後年は再び一緒に暮らしました。亡くなるまで、「マァア」は変えられませんでした。

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相当、キツかった母…