かといって、甘えられるような関係だったかといえばそうではありません。正反対です。相当、キツかった。気が強いという意味です。いまから思えば、父親がいなかった分、「父役」も背負っていたのでしょう、とにかく怖かった。
「あんた、なにしちょんね!」
バットを持って追いかけてきたこともあります。「九州女」という言葉がありますが、それに男気が加わり、気の強さでは僕は足元にも及ばない。息子がグレてしまうのを恐れて、とにかく厳しい親でした。近所でワルさをして「親か警察か先生、どれを呼ぶか」と聞かれたとき、「おふくろだけはやめてください」と懇願したのをいまでもよく覚えています。
「ごめんなさい」と「ありがとう」
自宅の二階で母が突然亡くなったのは、2010年のことでした。脳梗塞でした。妻が異変に気づいて僕を呼んだときにはもう亡くなっていた。すがりついたとき、口をついて出たのが詫びの言葉でした。ごめんね、ごめんね、ごめんね、ごめんね……。どこからこんなに涙が出てくるのか自分でもわからないほどに、声をあげて泣きました。
本当はあのとき謝りたかったのかもしれません。二十歳前後の頃のことです。
17歳で上京し、モデルの仕事を始めます。東京でモデルをすれば、報酬は手取りで「月5万円」だと聞いたからです。当時の大卒初任給よりも多かったはずで、中学3年間は新聞配達、定時制の高校時代は朝の4時までスナックで働いて得ていたバイト代とは雲泥の差でした。
1970年。人伝手で事務所に所属してから3カ月程で、ラッキーなことに資生堂のテレビコマーシャルが決まりました。「MG5 BRAVAS」です。小倉にも放送されるのか、気になりましてね。やっと、母に胸を張れる。それからしばらくして、母を東京に呼び寄せたのです。
小倉ではあんなに離れたかったのに、当時の心境というのは不思議なものです。しかも、慣れない生活が始まったばかりの母に、僕の態度はキツかった。仕事もまだ順調ではなく、母と二人きりになると、昔の思い出を責めたくなるときがありました。