翌18年5月8日の巨人戦(東京ドーム)でも、4回に山口俊(現ブルージェイズ)から逆方向の左翼席に飛び込む通算2号を記録。解説者の赤星憲広氏も「ピッチャーのバッティングじゃないですよね。野手にプレッシャーがかかりますよ。これだけのバッティングをされたら……」と脱帽するなど、“恐怖の9番打者”ぶりを発揮している。
秋山に劣るも、多くの本塁打を高校時代に記録したのは、桑田真澄(PL学園-巨人-パイレーツ)と、真田裕貴(姫路工-巨人-横浜-ヤクルト)の2人。ともに高校時代25本塁打を放った強打者だったが、プロ入り後は対照的な打撃成績だったのも面白い。
桑田はチームメートの清原和博の13本に次ぐ甲子園歴代2位タイの通算6本塁打(ほかに上宮・元木大介と広陵・中村奨成)。フィールディングも抜群に良く、もしプロで内野手に転向していたら、通算2000本安打、200本塁打も夢ではなかったといわれる。
また、甲子園で記録した本塁打は、勝利につながる貴重な一発が多かった。
83年夏の準決勝、池田高戦では、1点を先制した直後の2回、水野雄仁(巨人)の内角高め速球を左翼席中段に叩き込み、池田の夏春夏3連覇の夢を打ち砕いた。
84年夏の準決勝、金足農戦でも、1対2とリードを許した8回1死、四球の清原を一塁に置いて、左翼ポール際に起死回生の逆転2ランを放っている。
巨人入団後も、プロ初完封を記録した87年7月8日の広島戦(札幌円山)では、先制3ランとタイムリーを含む4打数3安打4打点でチームの全打点を自らのバットで叩き出し、投打に大活躍。02年6月19日の横浜戦(横浜)では、延長11回無死一のチャンスに、プロ17年目で初の代打に起用され、極端なバントシフトの裏をかくバスターで三遊間を抜く安打を記録するなど、巨人在籍21年間で890打数192安打7本塁打79打点の打率2割1分6厘の成績を残した。
一方、真田はエース&4番として、00年秋の兵庫県大会準々決勝の東洋大姫路戦で、姫路球場の左中間場外へ驚異の130メートル弾。翌春のセンバツでも、野間口貴彦(関西創価-巨人)とトップタイの最速144キロをマークするとともに、日大三高戦の4回に、近藤一樹(現ヤクルト)から1点差に迫る左中間ソロを放った。