プロ入り前から注目度は高かった。それは実績とともに2歳年上の兄・海成の存在もある。海成は16年夏限りで休部(事実上の廃部)となった名門・PL学園、最後の野球部員だった。
「仲の良い兄弟だった。兄の影響で野球を始め、尊敬していると言っていた」
中学時代、一緒にプレーした枚方ボーイズのチームメートは当時を振り返る。
「枚方は全国的に強かった。現広島の小園海斗もいた。『将来プロになりたい。そのためには大阪桐蔭、履正社、PLで甲子園」とか具体的な名前も話していた。恭大は『PLで兄と一緒に行けたら最高』と言っていた」
海成が入学した夏、PLは大阪大会で準優勝。藤原は兄の話を聞きながらPL進学を考え始めていた。ところが翌年からの部員募集停止が発表され、進路を変更したと言われている。
「もちろんそれだけが原因ではないと思う。大阪桐蔭は強いしプロもたくさん出している。でもPLの野球部がなくなることはショックだったはず。その後、PLという名前もあまり出なくなった」(中学時代のチームメート)
プロ入り後、公の場所では「子供の時から大阪桐蔭で甲子園に出るのが目標だった」とコメントしている。本音はどうだったのだろうか。思春期の中学生にとって悩ましい問題だったはずだ。
ロッテ入団後も注目された。話題性豊富な“イケメン”スター候補を周囲は放っておかなかった。球団公式インスタグラムにはレギュラー出演。私服姿などを連日公開した。
「誰が見てもカッコイイので反響抜群。野球以外の時間をかなり取られていたのでは」とロッテ担当記者は振り返る。
「プロなので露出するのは良いこと。でも野球以外の面での取り上げられ方が凄かった。私服姿をSNSにアップしたりしていて、本人も戸惑い気味だった。ファンも最初は喜んでいたが、結果が出ないと『やり過ぎでは』と感じるようになった。そういう声は藤原のもとにも届いており、焦りにも繋がっていたはず。精神的に強い選手ですが、まだ10代の若者。肩を故障した時期などは、かわいそうなくらい元気がなかった」
8月には左肩関節唇を痛め手術も考えたが、トレーニングなどで患部強化を図りながら、総合的なレベルアップを図っている。