彼は最後に自分を語り、そこでジヨンへの理解を示す。その後に、妊娠、退職する職場の女性カウンセラーについて、こう述懐する。「いくら良い人でも、育児の問題を抱えた女性スタッフはいろいろと難しい。後任には未婚の人を探さなくては……」

 これで原作は終わる。差別構造の根深さを、彼という人が体現していた。それが、映画では女性医師になり、目の前のジヨンをまるごと受け止めていた。

 初めての診察でジヨンは、「私が悪いんです」と言う。医師はゆっくりと、「あなたは悪くない」と返す。「ここへ来たら、治療の半分は進んだようなもの」。そう言って、ジヨンにほほえんだ。

 感動した。二人のありように、励まされた。人と人が会う。そのことで人は救われる。そういう場面を目の当たりにして、気持ちが軽くなった。もしこれがオンライン診療だったらどうだったろう。そう思い、試写の帰り道に気づいた。今、足りないのはこれなんだ。

■日常なら曖昧な境界線

「これ」とは何かというと、「ふとした出会い」だと思う。そう、それが「偶然」。ジヨンにとって治療は必然だが、女性医師との出会いは偶然だ。偶然に出会った人同士の、心に染みる会話。スクリーン上には確かにあったのに、現実からは減ってしまった。コロナが、減らしている。

 偶然に出会う相手は、人ばかりとは限らない。風景だったり、聞こえてくる音だったり。そういう何げないもので、嫌なことを忘れたり、少しだけ救われたり、すごく励まされたりする。それが人間というものなのに、それが足りない。

 活躍しているように見えても、実は弱っている人がいる。そんなことも感じる。すごくタフか、それほどでもないか。日常なら曖昧でいられる境界線が、コロナではっきりしてしまうのかもしれない、とも思った。

 コロナが連れてくる新しい局面に対応し、ますます自信を得るのがタフな人。そうでない普通の人は、自信を失いがちなのだ。自分のネガティブな感覚もあり、そんなふうにも考えた。

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