結局、俺たちの飯は当時1個7~10円で売られていた安いメンチカツだった。それも5枚くらい食えるかと思ったら、女将さんが「1人2枚で十分!」って言うもんだから、ケチだな~なんて愚痴っていたことを思い出すよ(笑)。

 相撲時代の秋の思い出は、本場所がまだ蔵前国技館だった時代の秋場所だね。場所中は部屋から蔵前国技館まで歩いて行くんだけど、その途中に関東大震災で亡くなった方の慰霊するお堂があるんだよね。そこを通ると、線香の匂いとイチョウ並木に落ちている銀杏の匂いがまじったなんとも言えない匂いがしてね。ここで何万人も亡くなったということを聞かされていたこともあって印象的だったんだろうね。匂いっていうのは季節や昔のことを回顧させるよね。ほら、昔付き合ってたおネエちゃんの香水の匂いとか、わかるだろう?(笑)

 そこを通っていた頃は若くて、希望に燃えていて、毎場所「たくさん勝って貴乃花関(初代)のように偉くなろう」って思ってはいるけど、かといって必死に稽古するわけでもなく「俺は若いからいずれ強くなるだろう」ってロクに練習もせずに功名心ばかりが先に来ていたね。そんな若い頃、いろいろな感情が綯い交ぜになっていたことも思い出すよ。

 そんな相撲時代の俺の最後の場所も、1976年の秋場所だ。ジャイアント馬場さんには「秋場所で勝ち越したらプロレスに入る」と伝えていたが、馬場さんは「負け越してもいいから、早く来い」って、場所中にしょっちゅう電話がかかってきてたね。特にあの場所は勝ったり負けたりで、なかなか勝ち越しが見えなくてやきもきしていたんだ。当時は「相撲でダメだったヤツがプロレスに行く」という風潮が強かったから、俺は余計にそう思われたくなくて勝ち越しにこだわったんだ。馬場さんは「負け越してもいい。どうにでも道筋ができるから」と言っていたけど、そこはこっちの意地の問題だよね。

 でも、勝ち越したら勝ち越したで、番付は上がるし、後援者からも引き止められるのは目に見えている。ちょうど秋場所は番付の上の人たちがみんな負け越して、東前頭13枚目だった俺は一気に前頭の一ケタまで上がりそうだったんだ。そうすると横綱や大関と対戦できるし、三役の関脇、小結に上がるチャンスもある。横綱に勝って金星を挙げたり、三役になって各場所を15日間休まず出場すれば、その分の報奨金を相撲協会が積み立ててくれる。引退するときにもらえる退職金が何百万円も変わるんだよ。だから番付次第では俺も迷ったかもしれないな(笑)。

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