彼は本当に遊び方をよく知っていてね。前にも話したけど嶋田家が毎年ハワイに行くようになったのは楽ちゃんがいろいろ教えてくれたからだし、他にもスキーにゴルフにと遊びにそつがない! それから彼は「笑点」に出て、真打に昇進して人気を集めていったね。35~36歳頃に楽ちゃんと一緒に銀座で飲んでいた時、「こうして銀座で気兼ねなく飲めるようになるには年収がいくらくらいあればいいんだい?」と聞いたことがある。その額を目標に俺も頑張ったよ。ほどなくしてその年収を達成できた時はうれしかったね! 馬場さんの交友関係の“おこぼれ”で同級生と再会できて、ハワイの遊び方も教えてもらって、そういう意味では俺も運があったのかもね。
そして、また北の富士さんの話をするけど(笑)。日本相撲協会から各部屋に対して、力士一人あたりに支援金が出る「力士養成費」というのがある。昔は入門から30場所つまり5年で幕内に上がらないと、その養成費が打ち切られる制度があったんだ。打ち切られる5年に近づくと、親方も力士に対して「そろそろ田舎に帰って別の生き方を……」と引退を勧めるんだよね。北の富士さんはその打ち切りのギリギリでやっと幕内に上がった。5年目でようやく幕内に上がるのははっきり言って遅いよ。それでも横綱まで登りつめたから本当にすごいよね。北の富士さんも強運の持ち主だと思うよ。
まあ、北の富士さんはめちゃめちゃ男前だから、親方や女将さんにも気に入られていただろうし、養成費が打ち切られてもきちんと面倒を見てもらえていたかもしれないね。相撲の世界でも顔がいいといろいろ面倒を見てもらえるから。俺はどうだったかって? 顔はともかく、性格がどうしようもなくて“北向き天龍”なんて呼ばれていた。俺が5年かかっていたら「田舎に帰れ!」だっただろうね(笑)。
相撲取りはよくゲン担ぎをするイメージがあるけど、俺や周りの若い力士はそうでもなかったね。まあ、昔からの伝統的な儀式としてお参りしたりといろいろやったけど、あまり気にしなかった。俺がいた二所ノ関部屋では屋上にお稲荷さんを祀って親方が大切にしていたけど、こっちは調子よく勝っているときは「ありがとう」で、負けていると「なんだよぉ」って悪態をついたり愚痴を言ったりね、いい加減なもんだよ。