「長崎や横須賀の写真を見ると、やっぱり、『いいなー、やるなー』って思っちゃう。レンズや技術を駆使して作り込んでる。それが的確でさ。アタシもこの写真感覚に酔わされたクチだよ」と、アラーキーこと写真家・荒木経惟が悼むのは、「戦後写真の巨人」と称され、2012年12月14日、82年の写真家人生を閉じた東松照明(とうまつしょうめい)。終(つい)の住処(すみか)は43年間撮り続けた沖縄だった。
1945年8月15日、東松は15歳で終戦を迎えた。郷里の名古屋市に米軍基地ができ、大人が「鬼畜米英」と言うアメリカ兵は、飢えた少年たちの頭上にチョコレートとチューインガムをばらまいた。東松はそれを「アメリカニゼーション(米国化)」と言った。
《米軍基地に張り巡らされた有刺鉄線と金網の網目から、じわじわっとアメリカが染み出して、日本全土に広がっていった》(『camp OKINAWA』2010年)
大学卒業後に勤めた岩波写真文庫を退職し、フリーのカメラマンとして日本列島に点在する米軍基地の周辺を撮って回った。69年に念願の沖縄に至り、同年、写真集『OKINAWA 沖縄 OKINAWA』を出版する。東松の心眼は何を求めたのか。
《沖縄は、日本以上にアメリカナイズされていると思っていたのだが、実際に行ってみるとそうではない。南島の自然と街のたたずまいや人々の暮らしから、民族の古い血の呼び声が聞こえてきて、(略)のめり込んでいきました》(『日本の写真家 30 東松照明』99年)
これらの作品は写真集『太陽の鉛筆』(75年)などにまとめられている。
全国各地を漂流しつづけたが、晩年は沖縄に落ち着いた。最後の一枚は、息を引き取った病院の屋上に咲く花だった。そして、沖縄の光になった。
※週刊朝日 2013年2月8日号 (敬称略)