この敗戦で、寺田さんはある決意をする。それは「プロ野球選手になること」。そうなることで、みんなの悔しさを少しでも晴らすことができるかもしれない、と考えたのだ。しかし当時の実力では「恥ずかしくて誰にもそんなことは言えず」、まずは大学で実力をつけようと思った。
8月から受験勉強に取り掛かった。だが、センター試験の模試の得点率は「2割8分」。野球ならまずまずの打率だが、模試となるとそうはいかない。寺田さんは「死ぬほど」勉強し、5カ月後の模試では「7割4分」に引き上げた。そして、三重大学教育学部に合格する。
ところが、ここから人生の歯車は二転、三転する。野球部には同学年に好投手が2人いて、実力差を思い知らされた。それに教育学部といっても、教員になりたいわけでもない。進路に迷いが生じ、ある思いがよぎった。
「自分は、医学の道を目指すべきだったのではないか」
入学3カ月後に休学届を出し、医学部再受験を目指した。だが翌春、二次試験で不合格。気力が失せ、ニートになった。さすがにこれはまずいと思い、バイトを始め、ウェートトレーニングや投球練習で気晴らしをした。そんなとき、筑波大の野球部に入った後輩が帰省する。キャッチボールをしていると、思いがけない言葉が返ってきた。
「先輩、球、速くなってますね」
失意のなかで励んだ自主トレが、意外にも効果を発揮していたのだ。この後輩の一言で野球への情熱がよみがえる。翌年、筑波大体育専門学群を受験し、合格。とはいえ、総勢120人の野球部員のなかで頭角を現すのは容易なことではない。2年生のときにトミー・ジョン手術(側副靱帯<そく・ふく・じん・たい>再建術)を受けたこともあり、4年春までは公式戦出場ゼロ。それまでは「スタンド応援組」で、大太鼓をたたいていた。「子どものときに音楽教室でドラムを習っていたので、太鼓は得意だったんです(笑)」。4年間の公式記録は12試合で1勝1敗。すべて中継ぎで、その多くが敗戦処理だった。