夏の甲子園で全国大会史上初の最速151キロをマークした“沖縄の星”は、ダイエー入りを熱望し、それ以外の球団に指名された場合は、九州共立大への進学を表明していた。

 ところが、ドラフト当日、オリックスが1位指名でダイエーに競合を挑み、抽選の結果、交渉権を獲得する波乱が起きた。

 意中のダイエーが外れたことを知った新垣は、ショックのあまり号泣し、「オリックスとは会わない。気持ちを切り替えて、4年後にダイエーを逆指名したいです」と入団を拒否した。

 オリックス側は5年前の平井同様、獲得可能と判断して強行指名に踏み切ったが、交渉は暗礁に乗り上げ、担当スカウトの三輪田勝利編成部長が出張先の沖縄で投身自殺する悲劇を招いた。

 もとより、新垣本人には責任のないことだが、ダイエー入りが幻と消えたことと併せて二重のショックを受けた新垣は「(野球を辞めるべきか)悩んだ時期もあった」という。

 それから4年後の02年、“松坂世代”の大学生12人が自由獲得枠を占めるという大豊作ドラフトのなか、大学通算23勝を挙げた新垣も、和田毅(早大)とともに憧れのダイエーに自由獲得枠で入団をはたした。

 高校生ドラフトが導入されたソフトバンク時代も、05年に陽仲壽(岱鋼。福岡第一)、06年に大嶺祐太(八重山商工)が入団を熱望しながら、いずれも競合くじで外れる悲劇が相次いだ。

 だが、陽は日本ハム時代の13年に盗塁王を獲得し、ロッテ入りした大嶺も15年に8勝を挙げるなど、通算28勝。進学、浪人など回り道をせず、気持ちを切り替えたことが吉と出た。

 ダイエー、ソフトバンク以前では、70年代の広島も、「他球団なら行かない」とこだわる地元の有望選手が多かった。

 だが、当時のドラフトは、予備抽選で指名順を決める方式だったため(入札方式は78年から導入)、広島は毎年のようにくじ運の悪さに泣かされていた。

 74年は社会人日本選手権の準優勝投手・田村忠義(日本鋼管福山)の指名が決まっていたのに、どん尻の12番くじを引いたため、11番目の太平洋に先を越されてしまう。

 76年はセンバツ優勝投手の黒田真二(崇徳高)が1位、チームメートの山崎隆造が2位の予定だったが、11番くじを引いた結果、9番目の日本ハムに黒田を指名されてしまった。

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“負傷の演技”が功を奏す