政治学者の姜尚中さんの「AERA」巻頭エッセイ「eyes」をお届けします。時事問題に、政治学的視点からアプローチします。
【写真】GoToトラベルがスタートした直後のにぎわいはこんなに
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明治以降、日本の公衆衛生は欧米から発展した西洋医学をお手本にしてきました。ところが欧米諸国では新型コロナの感染者が日本の数十倍から100倍近くに膨れ上がり、ディストピア的な状況に陥っています。遺伝子の問題など色々なファクターもあるでしょう。しかしそれをもってしても、お手本としてきた国々がこれほどひどい状態になったのは明治維新以来、初めてのことです。
公衆衛生だけにとどまらず、日本は明治維新以降、常に「欧米並み」という価値観が一つのスタンダードでした。感染が広がる中、「Go Toキャンペーン」の停止に踏み切れなかったのも、どこかに政府に「日本は欧米並みにはまだ至っていない」という根拠のない安心感もあったのかもしれません。
日本政府は14日、「Go Toトラベル」の全国一律停止を含めた見直しを決めました。自衛隊という本来国防や災害に関わる組織まで動員するという非常事態の中で、おいしいものを食べて楽しく旅行しましょうというのは、国民の中に分断を持ち込むようなもの。いくら経済を回すためとはいえ、それを政府がエンカレッジするのは、どう考えてもおかしいことでした。
ウォールストリート・ジャーナルのコラムニストも言っています。私たちの選択肢は(1)一定数の死者を前提として経済を回す、(2)人を救うことに最大のウェートを置いてそれを通じて経済を救う、のいずれかしかないと。しかし、データを集めると、(1)は経済的にも死者の数においても被害が甚大、(2)は経済においても死者の数においても前者に比べると被害が小さい、という統計が出ているのです。
このまま感染者の拡大が止まらなかった場合、懸念されるのは経済や医療崩壊だけではありません。医療現場で人間の生命のプライオリティーを選択せざるを得ない、そのような状態がずるずると続けば、間違いなく生命に関する観念が変わってきます。つまり役に立たないと思われる人、あるいは死期が近い人を切り捨てる、半ば優生学的な考えを社会に広げることに等しくなります。日本はまさに瀬戸際です。期間限定の一時停止だけでよかったのか。その答えは遠くない時期に出るでしょう。
姜尚中(カン・サンジュン)/1950年熊本市生まれ。早稲田大学大学院政治学研究科博士課程修了後、東京大学大学院情報学環・学際情報学府教授などを経て、現在東京大学名誉教授・熊本県立劇場館長兼理事長。専攻は政治学、政治思想史。テレビ・新聞・雑誌などで幅広く活躍
※AERA 2020年12月28日号-2021年1月4日合併号