さて、ママレモンさん。僕もよく「気を遣っている」とか「鴻上さんは本当に気配りだから」と言われました。でも、自分ではそう言われることは、そんなに嫌ではありませんでした。実際に気を遣っていて、「気を遣っている」と言われるのは、当り前だと思っていたのです。
ところが、三十代の時、先輩の演出家である木野花さんから「あんたは、気を遣っているのがミエミエだからダメなのよ」と言われました。
一瞬、意味が分からず、「どういうこと?」と問い返せば、「相手が気を遣っていると分かって、楽しい?」と言われました。
少し考えて、ハタと思い当たることがありました。
僕はその頃、「接待」というものに誘われることが何度かありました。そして、いつも居心地の悪い思いをしていました。
それは、接待をしてくれる相手が、「もてなすぞお」「楽しんでもらうぞお」と必死で気を遣っていることが丸分かりだったからです。
僕は三十代でしたから、スーツを着た中年男性が必死になって、「気持ちよくなってもらおう」「楽しんでもらおう」と気を遣っているのは、気づまり以外の何物でもなく、本当に苦手な空間でした。
コロナ以前、夜の街を歩くと、サラリーマンがタクシーに向かって深々とお辞儀して「お疲れさまでした」と挨拶し、車を見送った後、全員が深いため息をつくという風景をよく見ました。
接待が終わったんだなあと思いましたが、そこまで全身で「気を遣うぞ」と気合を入れた接待は、あきらかに無理があって、受ける方は楽しくなかったんじゃないかと、僕は勝手に心配になりました。
中には独裁者タイプというか「おお。人々は私のために気を遣っている。じつに愉快、愉快」と思う人がいるかもしれませんが、ほとんどの人は、相手が無理に気を遣えば遣うほど、そして、それが分かれば分かるほど、気づまりに感じるんじゃないかと思います。
相手が喜ぶ話題を必死に探し、沈黙を嫌い、常に感謝し、謝り、相手の言葉に大きくうなづき、喜び、相手の欲求を先取りする――それは素敵な心遣いですが、その努力と無理が丸分かりだと、強烈なプレッシャーになると思うのです。