パ・リーグの最優秀防御率を獲得した阪急・佐藤義則に至っては、右肘故障で2カ月離脱したことをマイナス査定され、越年までして粘ったが、現状維持の3800万円。「肘痛は公傷扱いにならなかった。『いくら考えても、考慮できない』と言われて……」と白旗を掲げた。
今年の日本人選手727人の平均年俸が4189万円であることを考えると、主力選手の4000万円台をめぐる攻防は、隔世の感がある(86年の平均年俸は1047万円)。
当時、年俸の上げ幅が小さかったのは、かつて球界のトップスターだったONの2人が、毎年ごねることなく一発更改したことが影響したといわれる。
長嶋茂雄は74年の4920万円、王貞治は80年の8170万円が最高とあって、各球団は「ONですらこの金額なのだから」と他の選手を抑え込むことができたのである。
長嶋氏自身もこの事実を認めており、91年に中日時代の落合が年俸調停を行った際に、「王君や僕がもっと努力しなければいけなかったとも思っている」とコメントしている。
バブル2年目の87年も、同様の状況が続く。打率3割2分2厘、30本塁打と入団以来最高の成績を残し、チームの6年ぶりVに貢献した巨人・吉村禎章は、当時一流選手の証明とされた5000万円の大台到達が確実視されたが、わずか20パーセントアップの4800万円。球団側が優勝のご褒美を加味しなかった結果で、「あまりにも差がありました」と肩を落とした。
さらに88年も、パ・リーグ首位打者のロッテ・高沢秀昭が、「チームで1番」の査定にもかかわらず、4500万円。日本ハムでは、先発、中継ぎ、抑えの一人三役をこなし、最優秀防御率を獲得した河野博文が2800万円、渡辺久信(西武)、同僚の西崎幸広とともに15勝で最多勝を獲得した松浦宏明も2750万円と、いずれも3000万円に届かなかった。
だが、バブル全盛の89年あたりから、しだいに様相が変わってくる。前出の原も、8年ぶりの日本一効果で8000万円に。「でも、この額は、まだ球界全体を引っ張るとこまではいってない。早くそこまでいきたい」と、さらに上を目指す意欲を見せた。