1986年から91年にかけて、日本はバブル景気にわいた。海外旅行がブームになり、国産高級車「日産・シーマ」が大ヒット。「ジュリアナ東京」「MZA有明」に代表される第2次ディスコブームやウオーターフロントブームが隆盛を誇ったのも、この頃である。
【写真】高年俸へのターニングポイントは、史上最年少の1億円プレーヤーとなったこの選手!
そんな空前の好景気をバックに、日本中でお金が渦巻いているなか、プロ野球選手の年俸もさぞかし上がっただろうと思いきや、意外にもそれほどではなかった。
まず、起点の年、86年を見てみよう(金額はいずれも推定)。
同年は、2年連続三冠王を獲得したロッテ・落合博満が1対4の大型トレードで中日に移籍。年俸も前年の9700万円から1億3千万円にアップし、日本人選手では史上初の1億円プレーヤーに。西武・東尾修も、9500万円の提示に対し、「残りの500万円は自分で出すから1億にして」と拝み倒し、ジャスト1億円で落合に続いた。
だが、景気の良い話はここまで。落合、東尾以外は、まだまだ全体的に苦しい銭闘を強いられていた。
セ・リーグ最多勝、最優秀防御率、沢村賞などに加え、2年ぶりVの立役者としてMVPにも輝いた広島・北別府学は、32パーセントアップの6070万円を提示され、「額が低過ぎるので、最初はビックリした。賞をたくさん(6冠)貰ったので、それに見合う数字は欲しい」と不満をあらわにした。最終的に6800万円でサインしたが、当時の球界を代表するエースですら、78人もの1億円プレーヤーがいる今年のランキングでは、西川龍馬(広島)と同じ162位相当だった。
16勝を挙げた巨人・江川卓も、43パーセントアップの6120万円にとどまり、「プロ野球は夢を売るのが仕事。もっと貰ってもいいと思う。あまりにも現実的過ぎる数字で、夢がない」とこぼしている。翌87年限りで現役を引退したのは、現実への失望感も多少はあったのでは?と勘繰りたくなる。
36本塁打を記録した巨人・原辰徳も、3年連続現状維持の3870万円という評価に、「ホームランは誰もが打てるものではないし、夢のあるもの。それを36本も打ったのに、寂し過ぎる」と、やはり夢のなさを嘆いている。