明治時代に創建された謙信を祭神とする上杉神社
明治時代に創建された謙信を祭神とする上杉神社
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春日山城に立つ上杉謙信像
春日山城に立つ上杉謙信像

高野山奥の院にある上杉謙信廟
高野山奥の院にある上杉謙信廟

 旧暦の3月13日は上杉謙信の命日である。3月15日に次の戦に向けて出発する予定でいたところ、居城であった春日山城で倒れ、昏睡状態のまま亡くなったようだ。享年49、死因は脳溢血だったのではないかと考えられている。妻帯せず子がいなかったことから、謙信の死後、家督騒動が持ち上がったことは大河ドラマにもなった話でご承知の通りである。上杉謙信といえば、宿敵であった武田信玄もこれに先立つ5年前に53歳で病死している。信玄の死亡は3年秘匿されていたというから、世間的には謙信と信玄は相次いで死去してしまった感じだっただろう。ここから織田信長の勢力が一気に増したと言える。

●「毘」は謙信の軍旗に

 上杉謙信といえば義に厚く、神仏に深く帰依していたというイメージが強い。5月の端午の節句に飾られる「五月人形」では「謙信兜」が人気が高いのだと言う。月と太陽をイメージした日輪と三日月の前立ちが特徴的な頭形兜(ずなりかぶと)は、「妙見信仰」の「太陽と月」をモチーフにしているとも言われているし、また、実際残る兜をかたどった迦楼羅(かるら)姿の飯綱権現が前立に乗る形のものもある。戦国時代の武将たちは総じて信仰心が高かったが、謙信がまとう装束は一層その傾向が強かったようだ。自らを毘沙門天の生まれ変わりと信じ、軍旗には「毘」の一文字が描かれていた。

●武田信玄に対抗できる上杉謙信として

 このような謙信のイメージは江戸時代につくられたものと考えられている。徳川家康が滅亡した武田氏の家臣たちを重用していたこともあったのだろう、太平の世で彼らが武田信玄を美化することを許していた。これに対抗した上杉家などが、軍神・上杉謙信の像を作り上げていったのである。滅亡してしまった武田家に対して、減移封されたとはいえ江戸時代にも家名が存続し続けた大名である。どんどん武将の鏡のようにあがめられていく武田信玄に不満もあっただろうことは想像に難くない。

●武田信玄からの奉納が戸隠神社を窮地に

 さて、実際に上杉謙信は深い信仰心を持っていたのかといえば、ある意味、臨機応変だったのではないかということが最近の研究から明らかになってきていて、謙信が150に近い数の寺社を焼き討ちしていたことが記録として残っている。

 興味深いエピソードがある。5回に及ぶ川中島の戦さで覇を競った武田信玄が、戸隠神社(当時は戸隠山顕光寺)の大権現に戦勝祈願を奉納した(祈願文が現存)。武田信玄も自らを不動明王の生まれ変わりと自負するほど神仏に帰依していたことで知られ、戦さの前には筮竹(ぜいちく)の占いと侵攻先の神仏に祈願と寄進をこのようにしていたことがわかっている。この時、戸隠神社は上杉側と考えられていたため、これを受理した社に謙信は激怒、戸隠に出兵し、僧たちは出奔せざるを得なくなった。この後、武田と上杉の間で戸隠は翻弄され衰退、僧たちは長く武田氏配下であった大日方(おびなた)氏の土地に身を潜めていたようだ。戸隠神社が復興したのは、豊臣秀吉の時代、朝鮮出兵から戻った上杉景勝の手によってである。

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