戦国時代の寺社も生き残りをかけて

 当時の上杉謙信が居城としていた春日山から戸隠山あるいは飯綱山までは50キロもない。信州の大部分は信玄の領地のように思いがちだが、北部は謙信の土地だったのである。川中島の場所も戸隠山よりさらに20キロは南側なのだから謙信の怒りも分からなくもない。実際、信玄と謙信の間では、神仏の分捕り合戦のようなことも起きている。戦国時代は、寺社にとっても身を寄せる武将を過つと存続の危機に瀕していた時代である。ある意味、戦国時代をくぐり抜けて存続している寺社は、力のある為政者側にいたことも大事な要因だったのだろう。

●各地に残る謙信の墓碑

 上杉謙信は亡くなったのち、亡きがらは鎧と太刀を帯びた装束で漆で密封された甕の中へ収められた。その後、上杉家は米沢藩へと移封されるのだが、この時もこの甕は米沢城の一角に安置されていたという。明治時代になり、歴代藩主とともに上杉家廟所に祀られることとなった。このほか、謙信が幼少を過ごした春日山林泉寺(上越市)、日本中の有名人たちの墓標のある高野山金剛峯寺の奥の院などにもお墓がある。毘沙門天、妙見菩薩、飯綱権現、大日如来と謙信が信仰していたという仏さまが記録からいくつも出てくる。幼少には曹洞宗、大人になって真言宗、晩年には天台宗のお寺に帰依していたとも言われている。信仰心の厚さはこの広く信じる心にあるのかもしれない。

 今年、丑年は信州のお寺にとって大事に年になる。戸隠神社は数え7年(6年)ごとの岩戸開きがあり、式年大祭が行われる。本来ならば善光寺も同時にご開帳の予定だったのだが、コロナ禍のせいで来年に延期となった。来年の寅年にはこの戸隠と善光寺を先立ちとした、諏訪大社の御柱祭が行われる。共に丑寅(艮)年と未申(坤)年に欠かせない大事な行事として永く続くものである。艮は鬼門、坤は裏鬼門という風水から、そして仏教、神道、陰陽道など日本にある民間信仰を習合させたと考えられる行事の集大成がこの地に残っている。

 まさに、上杉謙信の地元ならではの形である。善光寺の延期が残念でならないのだけれども。(文・写真:『東京のパワースポットを歩く』・鈴子)

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