「こちらが思い描いた以上のことを演じてくださる俳優でした」
静かな語り口でそう振り返るのは、脚本家の伴一彦(ばん・かずひこ)さんだ。
4月3日に亡くなった俳優の田村正和さんが主演を務めた連続テレビドラマ「うちの子にかぎって…」(1984年)や「パパはニュースキャスター」(87年)の脚本を手掛けた伴さん。当時、脚本家としてまだ駆け出しだったが、希代の二枚目スターである田村さんにホームコメディーを演じてもらうという出演依頼をプロデューサーと一緒に持ち込んだところ、田村さんは真剣に耳を傾け、オファーを受けてくれたという。
田村さんとはどのような人だったのか。伴さんに聞いた。
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――田村さんのコミカルな演技の魅力が広がったのは、「うちの子にかぎって…」がきっかけだと言われています。なぜ田村さんだったのですか。
「うちの子」以前に放送していた「くれない族の反乱」から、ちょっとコメディーっぽい要素があったんです。「うちの子」のプロデューサーでもあった八木康夫さんが田村さんと一緒にやっていて、家庭的な部分も出ていました。昔見たテレビ時代劇「若さま侍捕物帳」も、元気はつらつな若さまが活躍する、弾けた内容なんです。
「うちの子」は企画先行だったので、最初は主演が田村さんとは決まっていませんでした。八木さんが企画を持って行きましたが、田村さんの事務所の社長に断られてしまった。ですが、「当たって砕けろ」と田村さんに直接持っていったら、OKしてくれたんです。当時、僕は29歳で八木さんも33歳だったかな。僕はまだ連続ドラマを書いたことがない状態でしたが、話を聞いてくれました。
――真摯(しん・し)な方だったんですね。「うちの子」が反響を呼んで、「パパはニュースキャスター」につながったということですか。
「子どもと田村さん」の組み合わせが面白いから、またやりましょうとなった。そこで、子ども嫌いの鏡竜太郎を演じる「パパはニュースキャスター」が生まれました。ただ、設定では子ども嫌いといっても、子ども好きの田村さんの地が出てしまったんです。