哲学者の内田樹さんの「AERA」巻頭エッセイ「eyes」をお届けします。時事問題に、倫理的視点からアプローチします。
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五輪憲章はJOCのホームページで読むことができる。その「根本原則」は「オリンピズムとは一つの生きる哲学である」という言葉から始まる。
「オリンピズムは努力することの歓(よろこ)び、良き模範がもたらす教育的価値、社会的責任、そして普遍的で根源的な倫理的な諸規範に対する敬意に基づいた生き方を創造することをめざす」と憲章は謳(うた)っている。
崇高な目標だと思う。「きれいごと」だし、いささか「欲張り過ぎ」だとも思うけれど、こういう目標は非現実的でも構わないのである。透視図法における無限消失点のようなもので、それをめざして努力して、それが達成できないまま、前のめりに倒れた人たちが何世代にもわたってバトンを引き継ぐならば、「根本原則」は十分にその役目を果たしていると言ってよいと私は思う。
でも、正直に言って、今の五輪の実相は憲章の目標と隔たること遠いと言わねばならない。女性差別、ルッキズム、障害者差別に続いて、今度はホロコーストを笑いネタにした事件で開会式の演出担当者が解任された。いったい組織委はスタッフの人選に際して「五輪憲章の趣旨をよく理解している」ということを条件にしていたのだろうか。
根本原則の第6条にはこうある。
「この五輪憲章に定める権利および自由の享受は、人種、肌の色、性別、性的指向、言語、宗教、政治的その他の意見、国あるいは社会的出自、財産、家柄などの地位によるいかなる差別も受けることなく保障されなければならない」
この文言が採用されたのは2014年からである。当初は「いかなる差別をも伴うことなく」という抽象的な言い回しだったものが次第に差別の具体例を列挙するようになり、ついに今のように網羅的なものになったのである。この「根本原則」の書き換えの推移を見ると、IOCが差別にかかわる国際世論に対して非常に神経質であったことが窺(うかが)える。
東京五輪のスタッフに参加する人たちには、まずこの点についての「研修」がなされるべきであったのではあるまいか。もう遅いが。
内田樹(うちだ・たつる)/1950年、東京都生まれ。思想家・武道家。東京大学文学部仏文科卒業。専門はフランス現代思想。神戸女学院大学名誉教授、京都精華大学客員教授、合気道凱風館館長。近著に『街場の天皇論』、主な著書は『直感は割と正しい 内田樹の大市民講座』『アジア辺境論 これが日本の生きる道』など多数
※AERA 2021年8月2日号