これを聞いた樋口は言われたとおりに生け捕りとなる。物語はこの樋口の振る舞いについて「きこゆるつはものなれども(名高い強い武将だったが)」とわざわざ断っている。つまり、樋口は怖じ気づいたわけでもなければ、義仲に忠誠心がなかったわけでもない。すでに義仲は討たれ、戦う理由もなくなり、そこに「後世をとぶらひ参らせ給へ」の一言が、樋口の降参の決定打になったということだ。

 討ち死にを覚悟していたであろう樋口さえ、主君の「後世」が気がかりで、武士としては屈辱的ともいえる生け捕りの道を選ぶのだ。それほど「後世を弔う」ということが重要視されていたのである。

 なお物語は延々と、家臣たちが討ち取られていくところを描いていく。そして義仲を弔うために投降したはずの樋口もまた、義仲の死から一一日後、後白河院の意向により処刑されてしまう。

「後世(来世)こそ、極楽浄土に生まれ変わりたい、少なくとも地獄に堕ちたくない」――そんなふうに考えていた人々にとって、この展開はあまりにも悲惨に聞こえたことだろう。義仲は「後世を弔う」はずの家臣たちを次々と失うことによって、来世さえ期待できない孤独な末路を迎えたのである。人を殺したという罪を背負い(義仲のみならず武士の宿命である)、家臣からの供養もなく中陰を彷徨よい、十王の裁きを待つ。これは中世の人々にとって、最も怖れていた死のあり方だった。

 なお、この最期があまりにもショッキングだったのか、あるいは義仲に同情的な人物がいたのか、『平家物語』の異本(伝承の過程で内容や構成に異同を生じた本)には、義仲に仕えた女武者である巴御前(ともえごぜん)が生きながらえて、91歳で極楽往生を遂げるまで、義仲を弔い続けたとする内容のものもある。

 樋口でも今井でもなく、巴御前が生き残るという展開には理由がある。実は「後世を弔う」のは、遺された女性に任された務めでもあったからだ。

 同じく『平家物語』より、建礼門院(けんれいもんいん/清盛の娘、安徳天皇の母)の言葉を引用しよう。彼女は平家滅亡ののち京都・大原(おおはら)に隠棲するが、そこを訪ねてきた後白河院に対して、源平合戦の顛末を、生きながらにして六道の苦しみを味わったと回想する。そして母の二位尼(清盛の妻時子)の遺言を次のように語る。

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