●権現さまは仮の姿

 また、「権現(ごんげん)」というのも、「権」(=仮の姿)であらわれた──という意味で、たとえば、野権現、春日権現など日本に仏教が広まる以前から信仰されてきた神さまなどは、仏が権現(仮の姿で日本の地に現れていた)したという意味で呼ばわれていたのである。そして時代が下るにつれ、神でもあり仏でもある祭神を祭るお社は日本人に熱狂的に愛されたのだ。徳川家康は、亡くなったのち「東照大権現」という神で仏となった。

●明治時代に出された「神仏分離令」

 このような神仏習合が最も進んだのは、新仏教が隆盛した鎌倉時代だと言われている。江戸時代になると、国学、儒教などを学ぶ学者たちから仏教を他宗教とはっきり区別させる提言が起き、それにそった政策が地方の藩から出始めた。結局明治維新に際して、神道を国の中心に置き王政復古による明治天皇へのカリスマ性を高めようという狙いがあったのだろう「神仏分離令」が出されることになった。ところが、神道を国の一番の宗教に──という考えが、逆に仏教排斥へと大きく動いてしまう。

●「神仏分離令」が「廃仏毀釈」に

 国が指示したのは神社とお寺の分離独立であり、これに伴って神社に使えていた僧侶の還俗(僧侶が一般人になること)、神社にある仏具や仏像を寺院へ引き渡すこと、神社の御神体を仏像とすることの禁止などが通達された。

 江戸時代、お寺の監視下に置かれていた人々の反感などもあったのだろうが、神官や国学者たちに煽られた人たちは、廃仏毀釈(お堂・仏像・経文などを破壊すること)運動を起こし、あっと言う間に全国的に広がっていった。特に、明治政府の役人が多かった薩摩藩(鹿児島)からは藩内すべてのお寺が無くなるなど、数年のうちに国宝級の仏像を含めて多くの寺宝が破壊された。煽動され暴走する民衆の恐ろしさは、こんなところにも表れている。

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