ニューヨーカーの原本を見せるキャノン・ハーシー。子どものころ「ヒロシマ」は夏の課題図書で、学校の授業では原爆投下による終戦について学習しただけだったという(撮影/津山恵子)
ニューヨーカーの原本を見せるキャノン・ハーシー。子どものころ「ヒロシマ」は夏の課題図書で、学校の授業では原爆投下による終戦について学習しただけだったという(撮影/津山恵子)

 当時は終戦から1年もたっておらず、ほとんどの米国民にとって日本は敵国との印象が強い。終戦直後のギャラップの調査では、成人の85%が原爆投下を「正当だった」と答え、「正当ではなかった」と答えたのはわずか10%だった。

 ジョンと編集者、発行人の3人だけが極秘で進め、店頭にニューヨーカーが並ぶまで一切口外しなかった。表紙は、真夏の公園で無邪気に笑顔を浮かべてくつろぐ家族やカップルのイラストで、中身とは無関係だ。

 ジョンは、発売前に実家がある南部ノースカロライナ州への列車のチケットを買い、家族で引っ越した。「ヒロシマ」の発表で、「反アメリカ的」だと批判され、身に危険が及ぶ可能性すらあったためだ。

「ジョンは、ヒロシマを書いたために後半生に暗い影を背負いこんでいたのかもしれない」

 と証言するのは孫でありアーティストのキャノン・ハーシー(44)だ。

■人間性の理解が大切

 キャノンの父でありジョンの息子ジョン・ハーシー・ジュニア(故人)の話を記者は聞いたことがある。戦後のジョンは、朝から書斎に出かけ、執筆し、夕食に戻ってくるという規則正しい生活をしていたという記憶しかない、と話していた。「ヒロシマ」について語り合ったこともなかった。

「ヒロシマ」は、ニューヨーク大学の「20世紀で最も優れたジャーナリズム100選」のトップに位置する。ジョンは、戦場記者時代に書いた小説で、ピュリツァー賞も受賞している。しかし、原爆の真実を暴いたことで、「反アメリカ」のレッテルを貼られることを生涯、警戒していたのは間違いない。

 キャノンは、アーティストとして、コミュニティーや国際的なアートプロジェクトで、各地の人々と結びつき、環境や人権についての情報を広める活動を続けてきた。

 しかし、2016年に「ヒロシマ」発表から70周年を迎えるのを前に、「キャノン・ハーシー“ヒロシマ”への旅~なぜ祖父は語らなかったのか~」(NHK制作、15年放送)に出演。以来、日本へは28回訪れ、番組制作のほか、各地のアートイベントで、ジョンが「ヒロシマ」の行間で伝えようとしたメッセージを代わりに伝えていく活動をしている。

「自分は、原爆や戦争の是非などについて個人的な意見は、アートの表面には出さないようにしている。大切なのは、事実を通して人間性について理解することだし、人間らしさを考えることがグループや人々を動かす原動力になっていくから」

 とキャノン。淡々と描写し、ハードボイルドな文章を確立した祖父ジョンのスタイルに通じるものがある。

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