1975年に朝日新聞社の取材を受けるジョン・ハーシー。85年に証言者と再会するため再来日。93年にフロリダ州の自宅で78歳で亡くなった (c)朝日新聞社
1975年に朝日新聞社の取材を受けるジョン・ハーシー。85年に証言者と再会するため再来日。93年にフロリダ州の自宅で78歳で亡くなった (c)朝日新聞社
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 1946年、米ジャーナリスト、ジョン・ハーシーが原爆投下直後の広島を取材ルポした「Hiroshima」が世界を揺るがせた。そのレガシーは今も孫らによって受け継がれている。AERA2021年10月4日号に掲載された記事で、その歴史について紹介する。

【写真】ニューヨーカーの原本を見せるキャノン・ハーシー

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 音もない真っ白なフラッシュ、突然の崩壊と劫火(ごうか)、至る所で唸る人々、嘔吐する人々、患者であふれかえる病院、死にゆく人々──。

「ヒロシマ」は、人々のその瞬間瞬間の思い、悲惨な描写から広島の地形に至る情景を次々に目に浮かばせ、速いテンポで読ませる。まるでドキュメンタリー映画をそのまま文字で追うようなルポだ。

 英語で3万1千語の長いルポは、今から75年前の1946年8月31日、米ニューヨーカー誌が掲載。ほぼ同記事だけを掲載した異例の号で、インターネットもない当時、30万部がたちまち完売した。ほかの新聞や雑誌が再掲載したほか、英BBCは全文を朗読する特番まで組み、何百万人もがラジオに聞き入った。

 2人の医者、若い工場勤務の女性、ドイツ人カトリック神父など6人が次々に現れ、原爆投下の瞬間からその後の状況を語る。世界中の人が当時、同記事によって、45年8月6日のキノコ雲の下で何が起きたのかを知って驚愕した。

■原爆投下から9カ月後

 目を覆いたくなるような光景も淡々と描写し、「ニュー・ジャーナリズム」という言葉を生んだ。BBCによると、ノーベル物理学賞受賞者のアインシュタインは、仲間の科学者に送るため千部を購入しようとしたが入手できず、ファクスで仲間に送ったという。科学が、人類に何をしたのか、核兵器の将来がどうなるのか議論を引き起こすきっかけにもなった。

 そのルポの筆者である、ジャーナリストのジョン・ハーシーは1914年、宣教師の父が赴任していた中国・天津で生まれた。エール大学に進学、37年からタイム誌に書き始め、第2次世界大戦では欧州・アジアで戦場記者のキャリアを築く。

 46年春、ニューヨーカー誌から広島の現状をルポするように依頼され、原爆投下からわずか9カ月しかたっていない広島に降り立った。身長190センチ近い白人のジョンは、ドイツ人のカトリック神父をつてに、他の5人の生存者から証言を次々に得た。

■家族で南部に引っ越し

 日本から記事を発信すると、日本を占領していた連合国軍総司令部の検閲で、日の目を見ない可能性があった。ジョンは帰国してからニューヨーカーの編集者と極秘で、執筆を進めた。廃墟となった日本の写真やビデオは、検閲によって日本国外に出ていない。

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