これに対し、阪急も同27日、最初に米田と契約を交わしたことを主張し、コミッショナー事務局に提訴。二重契約騒動が勃発するなか、渦中の米田は翌56年1月10日、背番号41のユニホームを着て、甲子園で行われた阪神の自主トレに参加した。米田の入団を既成事実化したい阪神側の思惑もあったようだが、翌11日、コミッショナー事務局から「問題解決まで練習禁止」とストップがかかり、裁定を待つことになった。

 2月13日、井上登コミッショナーは、最初に契約したのが阪急だった事実と、「給料は安かったけど、背番号18をくれると言うんで」という本人の意思を確認したうえで、「所属先は阪急」の裁定を下す。

“ガソリンタンク”の異名をとるタフネスぶりで、歴代2位の通算350勝を挙げた米田は、くしくも75年シーズン途中、阪神に移籍し、再び縦縞のユニホームを着ることになった。

 二重契約問題は、その後も63年にセンバツ準優勝の北海高のエース・吉沢勝をめぐる巨人と阪急、64年に北川工(現府中東高)の左腕・高橋一三をめぐる巨人と近鉄の争いが表面化。いずれも巨人に軍配が上がったが、高橋の二重契約事件がきっかけで、年々高騰する契約金がオーナー会議で問題視され、翌年のドラフト制導入へと一気に加速したともいわれている。

 シーズン途中に引き抜いて入団させた大学中退投手の5勝分の“上積み”がモノを言って、ペナントを制したのが、61年の巨人だ。

 川上哲治監督就任1年目の同年、巨人は中日、国鉄とV争いを演じていたが、試合を任せられる投手がもう一枚不足しており、緊急補強が必要になった。

 そこで目をつけたのが、当時関大の2年生エースだった村瀬広基である。

 全日本大学野球選手権で力投する村瀬を見て、素材に惚れ込んだ川上監督は、大学を出たら入団させるよう関西担当スカウトに指示していたが、チーム事情を考えると、卒業まで待っていられなくなった。

 一方、村瀬も選手権決勝で日大に敗れ、「お前のせいで負けた」と監督からなじられたことで、大学に嫌気がさしており、中退でのプロ入りは、渡りに船だった。

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村瀬は巨人でいきなり好投連発