大学時代にデレク・タツノと投げ合った江川卓氏 (c)朝日新聞社
大学時代にデレク・タツノと投げ合った江川卓氏 (c)朝日新聞社
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 1970年代のドラフトの超目玉といえば、真っ先に江川卓の名前を挙げる野球ファンも多いはずだ。

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 作新学院時代は、公式戦でノーヒットノーラン9回、完全試合2回を記録するなど、“怪物”の名をほしいままにし、法大でも史上2位の通算47勝。そして、ドラフト1位で指名されること計3度。1978年の“空白の1日”事件を経て、小林繁との三角トレードで意中の巨人に入団するまでの一連の騒動は、社会現象にもなった。

 だが、そんな“50年に一人”の逸材の「価値を下げる」とまで言わしめた“伝説の左腕”が、同時期に存在したことを覚えている人は、どれだけいるだろうか?

 男の名は、デレク・タツノ。広島県にルーツを持つハワイ生まれの日系3世は、5歳のときから野球に親しみ、アエオア高時代にレッズの6位指名を受けたが、ハワイ大に進学。日本で一躍その名を高めたのが、1年生ながら地元・米国チームのエースとして出場した77年の日米大学野球だった。

 第1戦で当時法大4年だった江川との“夢の対決”が実現すると、タツノはスリークォーターからの快速球と落差の大きいカーブを武器に、石毛宏典(駒大)、原辰徳(東海大)ら強打者が並ぶ日本打線を6回まで被安打4、奪三振10の自責点ゼロに抑えて逆転勝利に貢献。さらに第4戦では、被安打4、奪三振12、自責点ゼロの完投勝利を挙げ、日本チームを率いる駒大・太田誠監督を「フォームが大きくダイナミック。これが1年生投手か。末が恐ろしい」と脱帽させた。この大会でタツノは最優秀投手に選ばれ、“江川に一度も負けなかった男”として注目を集めた。

 翌78年、今度は日本で開催された日米大学野球で、“タツノ旋風”が吹き荒れる。

 第2戦に先発したタツノは、岡田彰布(早大)ら中軸を3者連続三振に切って取り、5安打、9奪三振で三塁も踏ませず完封。日本ハムのスピードガンで当時の江川より4キロ速いMAX146キロをマークしたことから、三沢今朝治スカウトは「江川より上となれば、日本なら1億円の声も出るでしょうね」と算盤をはじいた。

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プリンスホテルがタツノと電撃契約