在京スカウトの一人も「すぐにでも15勝は計算できる」と太鼓判を押し、「(ドラフト浪人中の)江川に8千万や1億の値段をつけるのがバカらしくなった」の声も出るなど、海の向こうからやってきた“金の卵”は、江川の価値をも下落させた。
だが、日米の両コミッショナー間には「相手国の球団がドラフト指名した選手には手を出さない」という紳士協定があり、米ドラフトで翌年の3年生終了時から指名対象になるタツノが日本でプレーするのは、帰化でもしない限り、ほとんど不可能に思われた。
そんな水面下の“綱引き”をよそに、翌79年7月5日、社会人のプリンスホテルがタツノと電撃契約をかわし、世間をあっと言わせた。
大学3年間で通算40勝を挙げ、3年連続全米学生奪三振王に輝いたタツノは、同年6月の米ドラフトでパドレスに2位指名されたが、「将来のことを考えて」プリンス入社を決意。「一生プリンスにお世話になるつもり。プロ入りの気持ちはありません」と語った。
一説では、プリンスはパドレスの8万ドル(当時のレートで約1600万円)を上回る契約金6000万円を提示したと囁かれ、将来はマウイ島に建設中の系列ホテルの支配人のポストも用意していたといわれる。
前記の好条件に加えて、178センチ、79キロと米国人としては小柄なタツノは、スタミナに不安を感じ、米球界で日系人が冷たい目で見られていることなども考慮して、高校時代から抱いていた祖国・日本でプレーする夢を実現する道を選んだようだ。
当然のように「将来は系列球団の西武入りか?」の憶測も流れたが、今にして思えば、この入団会見が、タツノの野球人生で“最後の華”とも言うべきものだった。
翌80年1月に選手登録されたタツノは、厳寒期の練習についていけず、3月の社会人野球東京大会、松下電器戦でのデビュー登板も、四球絡みで1回を1失点と本調子にほど遠かった。
その後も練習方法や登板間隔など日本式の野球になじめず、2年間で通算5勝3敗。ラストシーズンの81年は肩、肘の故障でわずか2試合2イニングの登板に終わり、秋に帰国した。