港に隣接する造船ドック(撮影/水澤薫)
港に隣接する造船ドック(撮影/水澤薫)

 大和ミュージアムでは実物大の10分の1の模型や、大砲の模型、生存者の証言など歴史が収められている。開館は戦後60年の2005年で、海軍関係の研究者でもある戸高館長が、設立準備から協力した。当初は「原爆の落ちた広島で、戦争を肯定するような施設を造るのか」といった批判もあったという。だが戸高館長は「教育施設として歴史、戦争の悲惨さを伝える施設」と位置付けて理解を求めた。「広島に来て、原爆ドームで被害者としての戦争を、呉市に来て別の視点から戦争を深く考えてほしい。また呉海軍工廠での建造工程をひもとくのは、日本の産業史、モノづくりの歴史を紐解くことにもなる」。コロナ禍前の年間90万人の来館者数のうち、2万人が修学旅行生だったという。

 戦艦大和に関する基礎資料は殆ど残っていない。終戦間際に米軍に情報が漏れるのを恐れた海軍が全て焼却してしまったからだ。数千枚はあったはずの建造記録の写真も数枚しか残っていない。そんな中で当時、大砲を削り出した大型旋盤が戦後、メーカーに払い下げられた後に現役を終え、ミュージアムで保存・展示することになった。環境整備のためのクラウドファンディングが行われ、9月末までに2億7000万円が集まった。目標額の1億円を大きく上回り、戦艦大和の人気ぶりを裏付けた。

■呉市の未来とヤマトのメロディー

 ただ呉市の地域経済は、逆境にさらされている。

 日本製鉄の瀬戸内製鉄所呉地区(旧呉製鉄所)の高炉が9月末、約60年の歴史に幕を閉じた。経営悪化に伴うリストラで、約3000人の従業員の半数が配置転換や再就職を迫られている。コロナ禍もあり、状況は芳しくない。戦艦大和で培った技術を、時代を超えて、この地の新しい産業に転用はできなかったか。観光地として、もう一段の魅力があれば、もっと訪れる人は増えるのではないか。街を歩くと、そのような印象を持つ。

 彬良氏は、父の泰の究極の夢が、曲の「詠み人知らず」になることだったと振り返る。「『いま生きている人が全員、入れ替わった後で曲が残る。自分の縁者もいない、誰が作ったかわからなくていい。ワクワクするよな』って。壮大なロマンですね」。

 駅に流れる「宇宙戦艦ヤマト」のメロディーは、勇壮でいて、オルゴール調の音がどこか耳にする人の気持ちを和らげる。列車の発車時に、乗客が急いで駆け込むようなことのないように、との優しさも配慮されている。時代を超えて、呉市の人々、そして多くの人々を励ましていくことを願ってやまない。

■水澤 薫
みずさわ・かおる/ノンフィクションライター、元全国紙記者。

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