若松勉氏(中央)と写真に写るヤクルト山田哲人(左)と青木宣親(右) (c)朝日新聞社
若松勉氏(中央)と写真に写るヤクルト山田哲人(左)と青木宣親(右) (c)朝日新聞社

 翌78年6月13日の大洋戦では、これまた珍記録の3イニング連続本塁打を達成した。

 2対0の5回、根本隆から右越えソロを放った若松は、6回にも関本充宏の外角シュートに逆らわず左越え2ラン。さらに8対1の7回にも田中由郎から右中間にダメ押し3ランを放ち、76年の田淵幸一(阪神)以来、史上5人目(その後、巨人・山倉和博、清原和博も記録)の快挙を達成した。

 実は、若松は前日まで打率.228と絶不調。月平均20本程度しかバットを消費しない“打撃の職人”が4月は折るなどして32本も使っていた。

 だが、この日の朝、ほんの思いつきで「昔のバットを見てみたい」と自宅の物置に入ったことが幸運を呼び寄せる。

 前年9月、張本勲(巨人)と首位打者を争っていたときに使用したバットを手に取り、構えてみると、ピタリとフォームが決まった。そこで、試合でもこのバットを使ったところ、5回に根本の2球目を強振してファウルになった瞬間、「体が前に行ってる」と不調の原因に思い当たった。次の内角直球を力まずに振ると、「これだ!」という感触とともに1本目の本塁打が飛び出したというしだい。

「ヒットが出なくて眠れぬ夜もあった。それがこんな簡単にホームランが出るなんて……」と昔のバットのご利益に感謝した若松は同年、.341の高打率(リーグ2位)をマークし、球団初の日本一に貢献している。

 次も78年のエピソードである。

 5月23日の阪神戦、5対3とリードの8回2死二塁で、打者は若松。江本孟紀-大島忠一のバッテリーは、一塁が空いているので敬遠策をとったが、なんと若松は3-0からの4球目に飛びつき、三遊間を抜くタイムリー。マウンド上で江本が悔しがったのは言うまでもない。

 だが、この一打はけっして偶然の産物ではなかった。2球目と3球目が投じられた直後、福井宏球審が大島に「ボックスを出るのが早過ぎる」と注意するのを見て、「次は甘い球が来そうだ」と直感したのだ。

 捕手が経験の浅い大島だったこと、江本がボールを指に引っ掛けてコントロールを狂わせたことも幸いしたが、次の配球を読み、心の準備ができていたことが、何よりも大きかった。常に周囲の状況に目を配り、ヒントになりそうなものを見逃さないのも大打者の条件である。

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伝説的な名言は“あれ”だけじゃなかった