その後、1756年に除隊。当初は写譜で糊口をしのいでいたが、1760年にはダーラム(イングランド北東部)の管弦楽団の指揮者兼作曲家に。1766年、伝統あるバース(イングランド南西部)にあるオクタゴンチャペルのオルガニストに就任し、1770年までの10年間、多数のシンフォニーや協奏曲、 オルガンソナタ、室内楽ソナタを作曲した。
1772年には故郷ハノーバーに錦を飾り、妹カロリーネをソプラノ歌手として英国に伴う。妹は音楽活動もさることながら天体観測助手を務め、さらに彼女自身が多くの星雲星団や二重星を発見した。
1781年3月13日、ハーシェルは土星の外軌道にある天王星を発見した(彼自身はハノーバー出身の英国王に敬意を表して、ジョージの星<Georgium Sidus>と命名したが、後にベルリンの天文学者ヨハン・ボーデが命名したUranusが学界で承認された)。この功績により王立学会から表彰されて正会員となり、国王ジョージ3世に気に入られ、ロンドンで幼い王子王女に惑星を自作の望遠鏡で見せる王室付天文学者に任じられた。彼はその後も、王室付天文学者の地位に甘んじることなく、多数の二重星の観測データからニュートン力学が太陽系外の恒星の間でも作用する普遍的な原理であることを証明した。
最大口径の望遠鏡自作
あわせて、音楽活動も続けていた。
演奏される機会は少ないが、ハーシェルの音楽は後期バロックから初期古典派の典型的な作風で彼自身が創始した目新しいものはなく、変奏のパターン化や展開部の不足など作曲技法のぎごちなさもあった。しかし、それを補って余りあるメロディーラインの美しさや明快な構成が聞き手に心地よい印象を与える。同郷の先輩であるヘンデルや同時代のモーツァルト、ハイドンには及ばないにせよ、サリエリやシュターミッツなど他の前古典派作曲家の作品に、決して引けをとらないように思われる。
本業になった天体観測も天体望遠鏡作りも、作曲も、神によって創造された神秘的かつ数学的に明快な世界を解明するという彼の一生を通しての目的とは、なんら矛盾がなかったに違いない。ただ、有名となったハーシェルが王室付の天文学者、王立天文学会の初代会長としての活動が忙しくなり、作曲活動をやめてしまったことは大変に残念である。